数字のお遊びですが、ササン朝は、10年以上前から作成していた「古代ローマ、漢、サーサーン朝の人口、財政、生活費、GDP」の表を完成させる
ために推計してみました。唐とアッバース朝も、比較するとどうなるのだろうか、と興味が出てきたのでやってみました。結果はこん
な感じになりました。
【1】唐
「唐 とアッバース朝の財政規模」の記事で、税額367億文と算出しました。総生産高については、渡辺信一郎著『中国古代 の財政と国家』(汲古書院)p470で、総石高7億石と算出しています。田畑の総面積14億畝、1畝あたり0.5石(唐代は約 30リットル)なので、14億*0.5=7億石という計算です。上記財政規模の記事で、1石200文で算定しましたから、7億石 は1400億文に相当します。更に、一人1日2升(0.02石)を食料とすると、人口5300万人で年間消費食料3億8000万 石が消費され、衣料は(根拠を示してはいませんが)その半分の1億9000万石相当分が消費される、としています。消費される衣 服は、生産されたものですから、消費分の衣服が生産されたとすると、1億9000石*200文=380億文が生産されていること になります。よって ・税収367億文 ・穀物総生産額1400億文 ・衣料生産額380億文 合計 総生産2147億文 となります(一部税金と重複している部分がありますが、金額的に大きくはないので計算は省きます)。 1文160円で換算すると、GDP規模は34兆3520億円となります。税収の日本円換算額は5兆8662億円となり、GDPに 対する歳入額の割合は17%となります。この数字は漢王朝の20%と比較しても妥当そうな値です。漢代に比べて役人数が約3倍に 増えている(前漢13万、後漢15万、唐37万)割りには、政府は大きくならずに済んでいるようです。GDPは以下のアッバース 朝の倍近くなり、ほぼ人口に比例しています。 【2】アッバース朝
2−1)旧ササン朝領のGDP規模 マーワルディー『統治の諸規則』(邦訳p423)によると、サワードの農業総生産高は10億ディルハム。対する納税額は1億 ディルハム程度となっています。このことから、アッバース朝領土のうち、旧ササン朝領土の部分は一応納税額の10倍をおおよその GDP規模と見ることにします。ササン朝は、東西貿易の中継点であることから、膨大な関税収入があったと推測されるのですが、こ れについての情報は見つけられませんでした。一方、イブン・ハルドゥーン『歴史序説』邦訳第1巻p460に記載のある、サワード の税収のうち、地租が8078万ディルハムで、諸収入が1480万ディルハムとなっています。森本公誠『初期イスラム時代 エジ プト税制の研究』p404によると、バスラの船舶税、バグダード、サーマッラー、ワースィト、バスラ、クーファにおける羊市場 税、これら五大都市の造幣局収入、バグダードの人頭税などが含まれていることになります。これらは、サワード固有のものであっ て、他の州でも同様の税収があったのかどうか定かではないので、この部分に関する全体的な経済規模を測定するのは不可能です。農 業生産総額の5%になるのか10%になるのかわからないため、農業生産高から推測されるGDP+αとしかいえないところが残念な ところです。 取り合えず旧ササン朝領土の地租収入総額の10倍をGDPとすると、アッバース朝の旧ササン朝領土のGDP規模は、「パルティア・サーサーン朝の人口推計」で集計 した旧ササン朝領土の税収合計3億6048万ディルハムの10倍の30億6048万ディルハムとなります。以前「唐とアッバース朝の財政規模」の記事で、用い た1ディルハム4166円で計算すると、最低で(というのも関税などがある筈だから)12兆7499億5968万円となります。 2−2)旧ローマ帝国領土のGDP規模 森本公誠『初期イスラム時代 エジプト税制の研究』p274では、802年頃の税制改革で、小麦1.5アルデブが1ディナール と課税評価されることになり、15アルデブの収穫で、2-2.5ディナールを収めることになったとあります。すると、地租に対す る小麦全体の生産高は、地租の6.5-7.5倍となります。「パルティア・サーサーン朝の人口推計」で集計 した旧ローマ帝国の税収1億6324万ディルハムを7倍すると、11億4268万ディルハムとなります。これに4166円を乗ず ると、4兆7604億円となります。 2ー3)合計 旧ササン朝領12兆7499億5968万円、旧ローマ帝国領とアラビア半島4兆7604億円の合計17兆5103億円、未集計 の商業売上などを含めれば、アッバース朝のGDP規模は約20兆円近くになりそうです。税収総額は1兆6436億円な ので、GDPに国家財政が占める割合は9.4%です。 【3】サーサーン朝のGDP規模
ササン朝の税収総額は、607年の数字がアル・タバリーの歴史に掲載されています(こちらに当該部分があります)。カワード王(在 488-531年)の時代のサワードの税収は、、イ ブン・フルダーズベ、マスウー ディ、イ ブン・ハウカルなどに記載されている2億1400万と判明しています。 一方、イスラム時代に入ってからのサワードの税収は1億ディルハム程度です。サワードの税収が減少したのでしょうか、それとも 貨幣価値が変動し、ササン朝時代の2億1400万ディルハムが、イスラム時代の1億ディルハムに相当しているのでしょうか。 取り合えず、労働者の給与額を参考にしてみます。 ササン朝の場合、Philip Huyse2005:109によると一ヶ月の給与が16ディルハム、Philip Huyse2005:109とGyselen 1997によると、家父長の一日の食料と衣料費が3/5ディルハムとなっていて、年収に換算すると、前者は192ディルハム、後者は219ディルハムとな ります。そこで200ディルハムを年収100万円とすると、1ディルハムは5000円になります。一方、「唐 とアッバース朝の財政規模」の記事で利用した9世紀のガラス職人の年収は300ディルハム。これを100万と評価し ましたから、1ディルハム3333円。小麦の額から算出した場合1ディルハム4166円。ササン朝時代のディルハムの価値は 2/3-4/5に減価している可能性があります。取り合えずアッバース朝財政計算に用いた1ディルハム4166円を採用すると、 上記(2−1)で記載した、イスラム時代のサワードの農業総生産高が10億ディルハムは、ササン朝時代には8億3320万ディル ハム相当ということになります。サワードの税収は2億1400万ですから、徴税率は25.7%、1ディルハム5000円で換算す る と、607年のササン朝税収総額6億ディルハムは、3兆円、徴税率25.7%をササン朝全土に適用すると、GDPは11兆6731億円 となります。ササン朝も、東西交易のルート上にあり商業が盛んであった筈なのでGDP規模は12兆円以上だと見て良さそうです。 税収が国家財政に占める割合は約26%と、非常に高い数値となっています。これは、上記アッバースの8%や、漢王朝の15%と比 べ ても、非常に高い数値です。 一方GDPの規模自体は、人口約1400万のササン朝と、その4倍の人口をもつ漢王朝のGDP42兆円と比例していることがわ か ります。 ササン朝は、カワード時代(488-531年)からホスロー1世時代(531-579年)にかけて税制改革が行なわれ、税額 は、農産物のその年の生産高に応じた課税から、土地に対する固定税となり、徴税が強化されました。この二代の王の改革は、国家と しては富強となっても、民衆にとっては税負担が重くなった可能性があります。ササン朝は、ホスロー1世時代に最盛期を迎えたとさ れていますが、結構無理をしていたのではないかと推察されます。その無理の上にホスロー二世がローマに戦争をしかけ、敗戦して国 庫を圧迫したのでは、民衆がイスラムにあっさり征服を許したのも理解できます。アッバース朝の旧ササン朝領の徴税率9.4%の方 が 民衆にははるかにましであることは間違いないと思われます。 一方で、カワード以前の時代の税収割合は、これよりもっと低かったと考えられます。 参考資料 □マーワルディー『統治の諸規則』湯川武訳 □イブン・ハルドゥーン『歴史序説』森本公誠訳第1巻2001年 岩波書店 □森本公誠『初期イスラム時代 エジプト税制の研究』1975年岩波書店 □ペーター・クリステンセン『The Decline of Iranshahr』 |