5時45分起床。 6時半にはホテルをでて散歩に。 今日も天気は上々。 ローマ時代の要塞跡、 セルジューク時代の神学校2つ、廟等を見に行く。
要塞跡に上ってみる。 街の中心の小高い丘にあり、眺め良。 あたりの景色はすっかり東部。 街はオアシスみたいなところにあったのだった。
神学校は中庭がカフェになっていて、早朝にもかかわらず、入ってみることが出来た。
セルジュークの建築物は初めてである。 なんと直に石に幾何学模様が彫り込まれているのであった。
これはまったく予期していなかった。 しかも完成度は高い。 とても遅れている文明の所産ではなく、先進国の技術である。
タイルも一部使われてはいた(きっと当時は全面を覆っていたのかも知れないし、ゴシックからルネッサンス移行期のマニエリスムみたいにまだ石が
剥き出しだったのかもしれない)。
7時半バスターミナルに到着。 途中がきどもからギュベッチェ(ドーナツ型の硬いパン)を買う。
バスは8時半頃発だったと思う。 途中雄大な迫力ある東部の自然が広がる。 カルスには11時30分着。
しかしバスターミナルはかなり町から離れている。 とても歩ける距離ではない。 ドルムシュも見つからず、結局タクシーとなってしまう。
タクシーで旅行案内所まで行ってもらい、 アニーへも乗って欲しそうな運転手の誘いを断って、
旅行案内所でタクシー手配してもらうことにする。 29ドルでアニー往復。
もっとも他の見学者が来るのを待っていれば、シェアできてもっと安くなるそうなのだが、そんな時間は無い。専用で行くことにする。
旅行案内所で紹介してもらったタクシーの運転手と警察署へ行く。手続きは全部運転手がやってくれ、こっちは入り口で
待ってるだけでよかった。
アニーへはほぼ真東直線で50キロ。小高くうねった草木の無い丘陵地帯をタクシーはずばーっと走り抜けて行く。途中何度か検問に。
やがて村が見えてきて、その背後に建築物が見えている。 どうやらアニーである。
遺跡の規模大。 不便なところだけど行く価値はあるかも。 12時50分アニー着。
入り口で立ち入り禁止部分と国境側にカメラを向けないよう諸注意を受ける。 パスポートは入り口に預けなければならない。
15時まで見学。
トルコ紀行の著者が語った様に、 「この世のものではないものをみた」 というのは言いすぎに思えたが、
乙女の城は確かにすばらしい眺望だった。 実際、どこでも兵士がいるわけでもなく、 撮ろうと思えば乙女の城はとれないこともないのだろうが、
トルコ側の兵士には見つからなくても、反対側でどっかからアルメニア側の兵士がみていて、連絡されることもあるかも知れない。
(あとで「「トルコ」すみからすみまで」(伊藤久也著近代文藝社)を読み返してみたところ、著者が訪れたのは冬であることが
わかった。冬であれば、「この世のものでないものを見た」という景観があってもおかしくないと思われるので、
アニーに行くなら冬かも)
結局危ない橋は渡らなかった。 どっかに絵葉書くらいはあるだろうし。
天気がものすごくよく、遺跡の輪郭がすぱりと天空を切っている。触れると切れそうなほど 鋭い。
敷地無いは2キロ四方はありそうで、ところどころにトルコ兵がいるものの皆2−500m離れている。暑いので遺跡の建物内に
引っ込んでいる兵士も多い。 最初のうちは遠くの兵士に「この建物、この方向から撮っていいか?」と呼びかけ身振りで聞いていたが、
兵士もめんどくさそうに両手で「○」を作るだけなので、途中から気にしないで撮影した。 わりとというか全然自由に見学できた。
「乙女の城」がもっとも良く見える断崖際の建物には数人の兵士が休憩していて、学生らしき金髪でひげもじゃの青年が
乙女の城の絵を書いていた。 どうやら写真はNGでも写生はOKらしい。
他にも別の建物内で内装を写生している女学生2人組や学者っぽい夫婦などがいた。 見学を終えて入り口へ戻ると
受け付けの兵士が言うには、 私のドライバーはレストランへ行ってしまっているという。
受付にパスポートを見学者は預けなくてはならないのだが、私が入ったときは3冊くらい。出ていくときも8冊程度しかなかった。
見学時遭遇したのは乙女の城を模写していた金髪のにいさんと教会で内部を写生していた女学生二人組、
それにやたらと奥さんに詳しく解説している老夫婦だけだったが、他にもいたらしい。広い遺跡なのでわからないわ。
レストランでドライバーはロシア人のでっぷりふとったおばさんと一杯やってカラオケやっていた。
ビールのみながらおばさんの腕に指をはわしたり、なんなんんだこいつ。
ま、僕もビールおごってもらったけど。 暑くて疲れていたのでうまかったが、 それ以上に昼飯食っていなかったので、カルスまでの帰りのタクシーのなか、
うとうとしてしまった。
カルスからドゥーウバヤズィットまで直通バスは無いらしく、途中ウ−グルという町で乗り換え。途中もはやオアシスとしか言い様の無い谷間の村村を通過する。
ウ−グルには18時半到着、 乗合バスで人が集まるのを待ってウーグルを19時40分に出発、1時間後にドゥーウバヤズィットに着いた。もう真っ暗になっていた。
ドゥーウバヤズィット手前で初めて検問にあった。 エルズルムーカルスードゥーウバヤズィット間の景色は雄大。 私は気に入った。
ま、個人差はあるだろうけど。 きっとイランでもこうした景色が広がっているのだろう。 ドゥーウバヤズィットに向かう途中に見えるアララト山と周辺の景色は、
北側から向かう時の富士山に良く似ていた。
ドゥーウバヤズィットのホテルも○。 子供の客引きがトイレシャワーありで2ミリオンという。 安いということでついて行ったらホテルでは1.5にしてくれた。
洗面所の洗面器が垂れ流しになっていたことをのぞけば。値段にしては最高なのではないだろうか。 一応バスタブまでついていた。
夕飯を食いに出て、戻って23時頃寝る。ホテル名は「ウラルトゥ」だったようなきがするが、それは隣にある高級ホテルだったのかも。記憶があやふや。
7時おき。 外に出て見ると、 隣のホテルの日本人のツアー客が出発するところだった。
こんなところまでくるとは ・ ・ ・ そうか、 アララト山を見に来たのか。
大通にでるとドルムシュが。 ちょうど良いことにワン行。 乗せてもらう。 10時10分ワンに到着。
途中2度ばかし検問にあう。 同乗していたイタリア人のおっさんは検問の度に人権侵害だと「ばかどもが。くそったれ」を連発。 こっちがひやひやした。
この車にはどうやらスラブ系のバックパッカーが一緒だったみたい。ユーゴだったか。
ワンに着いたら街の混雑に方向感覚があやふやになり、子供にカレ(ウラルトゥ時代の要塞)までのドルムシュまで案内してもらったら、記念品を請求された。しっかりしてら。
日本のコインをあげた。
カレはドルムシュで10分程度。 ドルムシュを降りてカレまで歩く間、そこらへんで遊んでいた子供にしつこく「モニモニ」(マネーマネー)とまとわりつかれる。
入り口がよくわからないので、教会のところにいたじいさんに入り口どこと聞くと、 このままあがっていけばいい、というのでそのままあがっていってしまった。
標高150mほどの山の中腹に細く踏み固めたれた道がついており、そのままそれをたどって一周できそうだったが、
だんだん急斜面になってきてあぶなくなってきたので辞めた。天気は今日も最高で、ワン湖の湖面がコバルトーブルーに静かに横たわっていて最高の景観。
ワンの街も一望できるし。ここから見るとワンがオアシス地帯であることが明瞭である。緑があるのは街の周囲だけ。あとは木の無い丘陵地が周囲を取り巻いている。
一度下りて、 あとはぐるりとい一周して帰ろうと湖の方へ歩いていったところ、
そこに正式の入り口があったので、入場料払って もう一度要塞見学に向かう。また別の子供が二人ばかり頂上までついてきたが、
頂上付近で蚊の様な虫の大群が群がってきて 子供たちはどこかへ行ってしまった。
丘の上の要塞から見るワン湖の景色はすばらしかった。 しかし湖岸まで行ってみたら、ごみだらけで臭かった。
湖岸へ行くときも金を要求するがきがつきまとった。
バス停にもどったところでまた子供がやってきた。この子供はお金を要求してこなかった。
クルド人と思われる17、8くらい女の子が片言の英語で話しかけてきて、握手を求めてきたので握手したら、彼女の母親らしき人に怒られていた。
母親の前でわざとやった因習反発行為に違いない。
町へ戻るドルムシュを待っている時日本人旅行者に会った。 一緒に昼飯を食って色々聞いた。
しかしこの人はやたら水をがぶがぶ飲む。 それまで殆ど最低限の水で生活していた私には異様に映った。そして私もつられてがぶがぶ飲んでしまった。
ここで初めて知ったのだが、クルド地区では長距離バスは午後は走らないということを知らなかった。
「急いだほうがいいですよ」 といわれ、 早々に食事を切り上げバス会社のオフィスへ行ったが、もうディヤルバクル行はないとのこと。
次に行った会社ではビトゥリス行ならある、ということでそれにする。 15時30分にオフィスへ来いということなので それまで町中を観光して過ごす。
考古学博物館を探したのだが、見つからない。 町中ところどころの建物の上に銃を持った兵士がいた。
電器店街にはいってみたり、一通り街のメインストリートを歩く。 15時20分頃戻ってきたらもうバスに皆乗り込んで私を待っていた。
そのバスはワゴンだった。 出発。
検問がやたら多い。 ワゴンはビトゥリス迄は行かず、 その手前でビトゥリス行のほかの乗客とともにジャンクションでおろされた。
程無くビトゥリス行のミニバスがくる。 ビトゥリスは警戒厳重。のような感じ。 町の入り口に警察署があり、 ものものしい雰囲気。
女性の制服警官が歩いていたが、欧米の刑事ドラマに出てきそうなかっこよいおねえさん。
町は谷間に沿ってS字型をしており、谷の片方は巨大トルコ要塞の壁である。一瞬カフカの「城」が頭をよぎる。ちょっと不思議な景観。
最後バスを乗り換えてから案内してくれた二人の青年は 知り合いの店に立ち寄り、 ついでに私にもお茶をごちそうしてくれ、
ホテルまで送ってくれた。 お礼をあげようとしたら、拒否されたが、日本のコインなんです、お金ではありませんというと受け取ってくれた。
夕食後。ちょっと散歩し、 スイカを買って店先で食べた。
ホテルはなんというか、公共の古い建物の4、5階を改造したもので1,2階は郵便局か電話局らしい。とてもホテルと思えない階段を
上がって行くと4階にフロントとレストランがある。確か15000。値段相応の部屋だった気がする。
7時に散歩にでる。 ほどなく6,7才の子供につかまって町を案内された。
昨日町に最初に入ったときは谷にあるように思えたが、実はビトゥリスはカルデラのような地形をしているのだった。
丘へのぼってみればそのことが良く分かる。 中心の巨大要塞跡はオスマン時代のものか。写真は取れなかったけど、丘の上からの眺めは良。
他にモスクなどを案内された。 案内してくれた子供に最後にちゃっかり報酬に50くれといわれたが、 25で我慢しろと25だけわたす。
値切ったわりにはうれしそうだった。 ま、実際その程度の報酬分は働いたとおもえるし。
クルド人はなれなれしくずうずうしい奴とすごく親切な奴に別れると思った。 このイメージはイランでも同じだった。
子供が「写真とってよ」、というのでホテルに戻ってフロントのところで写真とっていたら、フロントの少年が、
俺もとってよ、更に、このカメラをくれ、という始末。冗談でも失礼だ。ちょっとむっとした。案内してくれた子供が要求するんならともかく、
なんでおまえにやらにゃあかんの。
更にそのフロント少年は帰り際にやってきた友人と一緒の写真もとれという。
なんて奴だ、と心の中では思っていたが、いいよ、と撮ってあげる。
バスのオフィスに観光用のビトゥリス市の眺望のポスターが張ってあったが、それはじぶんがとったのだと、オフィスにいた青年が話していた。
テレビで日本のアニメ、「母を尋ねて三千里」がやっていた。
9時40分出発。途中で大型ダンプが脱輪していて道をふさいでしまい2時間程停車する。 おかげでディヤルバクルに着いたのは14時40分。
ディヤルバクル観光はあきらめて 3時の○○行にのる(多分アダナ行きだったと思うが覚えていない)。 時間が無くて昼飯抜き。
昨夜のスイカですませる。 なんだか疲れている。 バスターミナルで靴磨きに囲まれる。すごい人数。15,6人はいただろうか。
子供とは言えああも大人数で囲まれると、危険だ。 おっさんに救出され バス会社のオフィスに待避。
19時頃途中のドライブインで夕飯。 影が夕日にものすごくながく伸びる。2,30メートルは伸びたろうか。思わず写真撮る。
うっかりしていて、ユーフラテス川を越える瞬間を見逃してしまった。 20時ガジアンテプ着。
ここでおりるおっさんと一緒にドルムシュに乗り換えホテルまで案内してもらう。おっさんは一緒の部屋にすれば安くすむと言っていたようだが
(言葉がまるっきり通じないので身振り会話なので、多分としか言えないが)、まだそこまで信用しきれないので、わからないふりして別々にとまる。
ビール買ってきて直ぐ寝る。 非常に疲れている。 結構寝汗が出る。 どうもちょっと熱があるのではないかと思う。
朝起きたときに計ったら36.8分だった。 こりゃちょっと熱が出ている。
からだのふしぶしが痛い。 7時20分出発。 ちょうどドルムシュでバスステーションのところでおりたら、
即座に目の前に「アンタクヤ」というワゴンが通りかかる。 考える間もなく、反射的に飛び乗ってしまった。
お陰で朝食とりそこなった。
車中やたらくしゃみをしている人がいて、早くおりてくれーと祈っていた。
10時50分頃アンタクヤ着。 両替して昼食にしてトイレットペーパーかって。
売り子のあんちゃんが 「シリアへ行くんなら、トイレットペーパーが必要だよ」 ってなようなことを言っていた。
モザイク美術館は午前中は休みとのことでじゃあこのまま帰ろうと一度バスターミナルへゆきカイセリ行きの切符を購入。
これが15時発だったので、モザイク美術館へゆくことにする。 行く途中右足の靴底が取れてしまう。 バザールへ行き修理に出す。
15時のバスに乗るからとチケットと時計を見せ、それまでに直してよ、とお願いすると「1時間だ」と時計を指してくれる。
サンダルに履き替えてモザイク博物館へ行く。 結構でかいけどチュニスのバルドー程ではないと思う。
しかし内容は充実している。
アンティオキアというと「背教者ユリアヌス」を思い出す。一体どんなところだろうかとずっと思っていたが、
何故か海辺の平地にあるものと思いこんでいたら、かなり内陸でしかも東に山を従えた地形であることがちょっと意外であり、
なんかせまっくるしいかんじ。オロンテス川が半ば予期していたこととは言え、どぶ川に近い状態に成り果てていたことがちょっと残念だった。
ま、神田川よりはましか、と思えば少し挽回するかな。
街の中心部のモスバーガーみたいなサテンで一休みし、その後定食屋へ昼飯食いに行く。
靴のかかとがとれてしまったのでバザールで修理してもらったら今度は靴擦になった。だいぶすりへっていたので、
2−3センチ高くなった感じだ(実際は1−2センチ程度だろうけど)。
修理されてきた靴はすっかり ピカピカに 磨き上げられていた。 「ふっふっふ、これで靴磨き少年につけいるすきをあたえまい」
妙な自信をもってバスステーションへ戻ったのだった。予想通り小年どもは近づけはしなかった。
地中海東岸から地中海を見たかったが、バスがイスケンデルンを通過するときにしばらく見えた程度。でもまあ一応見れたから
いいか。しかしイスケンデルンってアレクサンダーだからどういう因縁でついたのかそのうち調べよう。
カイセリに20時ころついてくれないかなーと期待していたが、結局高速の出口渋滞とかで遅れに遅れ、
風邪の為風邪薬を飲んでいて寝てしまい、はっと起きたら23時50分、どこかのターミナルに着いていた。
他の乗客に確かめたところカイセリとのこと。 慌てて下りたところ 凄くさむかった。
がちがち震えがくるほどに。 ただでさえ、地中海岸のアンタクヤから標高の高い地方へ来たというだけでなく、寝汗がでていてインナーはびしょびしょ、
しかもすべての上着をバスのなかで着込んでいたので、外へでてそれ以上きるものがなく、慌ててターミナルホテルに飛び込む。
一応部屋を見せてもらった。高いと思ったが、もう選択の余地は無く、ここにした。体調悪くそれどころではなかったので、
値切るのを忘れてしまい、レセプションで手続きを待つ間、他の客が値切っているのを横でみていて、しまったと思ったのだった(しかしそれらの客はそれでも予算外のようで、
結局別のホテルへか、バスターミナルにとまることにしたのか、去って行った)。
部屋には蚊がたくさんいて、洗面の蛇口のしまりが悪く、ぴちゃんぴちゃんとうるさかった。完全に閉めるまでに何度も起きる羽目になった。
バスを下りたとき、都会に戻ってきた、と思った。東部は夜間通行長距離バスは通行禁止で死んだように眠るバスターミナルだったのだが、
これで「戻ってきた」とほっと一息ついた気分だった。
朝ずーっと寝ている。じゅうぶんねむったところで起きたら10時30分だった。
結構気分は良くなっている。これなら無理しなければ出かけても大丈夫だと思い、カッパドキアへ行く。
バスの待合所でコンピュータ学科の高校生に会った。 12時発のバスで13時半に到着、ウチヒサール下車。
毎日長くバスに乗っているので1時間半は乗っている気がしない。
ウチヒサールからギョレメまで約1時間であるいた。ガイドによれば6キロあるとのことだったけど、もっと近いのかも。
景色はハラショー。オーチンハラショー。でも観光したのはここだけ。突然道が無く引き返したり、
オリエンテーションみたい。
中学生の頃新聞の日曜版で初めてカッパドキアを目にし、「こんなとこが世の中にあるのか」と思い、
自分がそこに行くことなどとても想像すら出来なかった頃のことを思い出した。
今 自分はそこにいるのだ。 そう思うとちょっと感動してしまう。
毎日6時に起きて深夜ホテルに入るという連日強行軍(昨夜も24時にカイセリに着いた)していたせいか熱がでてしまい、カッパドキアは半日観光ですませる。
ほんとはビザンツ時代の地下フレスコ画博物館を目指して 1時間さまよったのだが、見つけられなかったのだ。
無料インフォメーションで道を尋ねた時確認不足だったのである。
しかし 「表の道をまっすぐいって右」 と言われてよもや 5メートル先の角を右に曲がると考える奴は少ないのではないだろうか。
「表の道」の幅は10メートルはあったのだから。
17時半のバスで18時50分カイセリ戻り。 ホテルはバスターミナルの横なので、街の中心街まででなくてはならない。ドルムシュで中心へ。
旅行前読んだトルコの紀行本(著者はアンカラ日本人学校の先生)に、トルコでは時々絨毯の客引きに学校の先生がいる、
というくだりがあり、 「私は学校教師だ。 給料が安くて休み中は 絨毯屋でバイトをしているんだ。 あんたも教師なら、
教員がいかに薄給かわかるだろう? お願いだ、 買ってくれ」 という客引きに遭遇することがあるという話がでてきた。
私も英語教師の客引きに会った。 職業は? と聞かれ、 「コンピュータのエンジニアだよ」 と答えると、 彼は一瞬ぐっ、とつまったようなそぶりを見せた。
即座に上記エピソードが浮かんだ。 彼の予期してない職業だったのだろう、 職業によっては、 例えば公務員だと答えたなら、
きっと 「あんたも公務員なら、教員がいかに薄給かわかるだろう?」 とかいわれたのかも知れない。
なんだか気弱そうで、いかにも大変そうなので、買ってあげてもよかったのだが、私の場合軽装であることが遺跡巡り強行軍の条件なので、
荷物が増えることだけは避けたいし、郵送で送るのも面倒なので、結局断った。ちょっと気の毒だったかな。
カイセリにはビザンツ時代にさかのぼる要塞が街の中心に残っていて、 中は商店街。
城壁稜線はイルミネーションで縁取りされていて、 トルコ人の商売根性に感心する。
他にセルジューク時代の神学校、モスク、 廟があり、モスクに入って覗く。 入り口の装飾はエルズルムで見たチフテ・ミナーレに似ている。
タイルは無いが石造のくせに華麗な装飾という特徴は同質のものに思える。
神学校は、中庭が商店街に改造されていた。 間食を買いつつ散歩しながら約2キロの道のりをホテルまで歩く(中心部へ行く時はドルムシュ利用した)。
20時50分宿に戻る。 部屋に戻ってみると干してあったシーツやタオルの臭いが部屋中にこもっていた。
夜蚊がうるさくて2時頃目をさましてしまい4時頃まで格闘した。