9月25日  

 バンダル・アッバース
 

  午前4時半バスターミナルに到着する。 
 地図でみるとターミナルは海岸沿いなので、 すぐ海が見られるのかと考えてて、 闇のなか海岸と思われる方向に歩き出したら、泥と池ばかり。
 迂回ばかりさせられてなかなか前に進めない。 きっと普段満潮時は海に覆われているのであろう、と気づく。
 明るくなるのを待って、 もう一度見に行くと、 なんと海まで1キロはありそう、そこまでずっと泥と池が延々と続いているのである。
 こりゃ海辺まで往復する時間はないや、 とあきらめるが、 近くにいた親父がおもむろに海辺へ向かって歩き出し、
15分程度で海辺近くまで到達したようである。 さっさと行けば間に合ったかも知れない。

  ターミナルに戻ると、 片言の日本語を話すイラン人に朝飯をおごってもらう。 日本で半年ばかり働いたことがあるのだそうな。
 この時食ったサワークリームは めちゃくちゃうまかった。
 7時半のバスでシーラーズへと出発する。 バンダル・アッバースは通過しただけ。

 ところでイラン南部ではバスの出発時(検問で1時停車した後でも)になにやら乗客全員がイスラム鏡の経文を唱える(北部へ行くと殆ど見られなくなった)。
ものうげにけだるそうに、 ばらばらな調子でとなえ、 最後に 「インシャラーアッ」 で尻上がりに終わる。
 何度も聞いているうちに結構気に入ってしまった。

 シーラーズ

 17時。 シーラーズ着。 シーラーズの近くで右手に湖が見えた。 
タクシーで市の中心部まで出る。 ゼンド朝時代の要塞前の広場が中心の一つらしい。
 ホテルは直ぐ見つかる。 しかしホテルの従業員は ビシャプールのことは知らなかった。

 2階のテラスから夕日を見る。 食事に出て チェロケバプを頼む。 日本風に近いご飯に肉と野菜のバーベキューが
乗っているようなもので、 気に入ってしまい旅行中大半はチェロケバップ & ZAMZAMの組み合わせ。
 夕食後、 ありがたいことに通りで会った高校生の少年が案内してくれたお陰で シャー・チェラグ廟の 内陣に入ることができた。
 内陣は絢爛豪華。 美しいかどうかはともかく、 これほどきらびやかな装飾は見たことが無い。
 天井は金銀ガラスの結晶に覆われ、 まるで巨大ダイヤモンドの内部にいるかのよう。
 日本のパチンコ屋と ディスコを合わせて その内装を20倍くらい派手にしたもの、 と言えばいいのだろうか。
 しかもパチンコ屋みたいに安っぽくない。
 シーラーズはこれ一発で、 今回の旅行のイランベストスリーに入ることになった。

  この少年はロンドンに留学したがっていて、 ロンドンのことをしきりと聞きたがった。 あと何故かロンドンのゲイの話も知りたがっていた(としか思えない)。
俺が知るわけない。 そんなこと。

 死体のブロマイドを初めてここの通りで目にした。 気持ち悪い。 

 おいしそうな店頭で売っていたメロンジュース飲んでみる。 とってもおいしい。
 

9月26日

 ビシャプール

  朝ツーリストインフォメーションと イランエアーのオフィスさがす。
 旅行ガイドにあったツーリストインフォメーションは全然見つからず、要塞広場のところのイランエアーは貨物だけ。
 貨物代理店で地図を書いてもらって 人間のイランエアーへ。 
 1キロほど歩いて旅行代理店でビシャプールについての正確な情報を仕入れ、 イランエアでリコンファームする。
OK。 なるべく早めに空港へ行くようにいわれるが とにかくほっとする。

 タクシーでカゼルン行バスターミナルへ。 結構距離があるんだかないんだか。 
乗ってる時間は長かったが、 結構走った後でチェラグ廟のよう建物が見えたから、 結構イランエアに近いのかも知れない。
 10時10分頃バスターミナル着。 パンとジュースで朝飯にする。

 12時20分頃カゼルン着。 昼食後シーラーズ西100キロのカゼルンから シーラーズ方面に25キロほど戻ったところにあるビシャプールへ。

 とてもこんな所に町があったのだろうか? としか思えないほどの灼熱で荒涼としたところを走る。
 かなり当時とは気候が異なっていたとしか思えないくらい荒涼とした地。

  ビシャプール遺跡はわりと大規模だったが、 ローマと対抗したササン朝シャープールの王宮にしては貧相という印象を持った。
 地方都市の遺跡というのならわかるけど。 修復というよりもはや創作になってしまっている様なのも気になる。
 学者らしき現場の人が 一通り案内してくれたのであるが、 見れる範囲が限定され (見れた範囲は修復されている部分、遺跡全体の3分の1程度の部分なのではないか)、
自由に兼見学できなかった。 ガイドブックにはレリーフが近くにある、 とあったのだが、 たいしたレリーフではなかろう、
ガイドしてくれた人もタクシードライバーも何も言ってなかったし、 とそのまま引き上げてきてしまったのだが、
後で手に入れた資料によると、 結構大規模でササン朝遺跡としては 有名なレリーフが 遺跡と道路を挟んで反対方向の谷にあったのだった。
しかも8mもの巨大シャープールの彫像まで。 
 くっそー。 もっともたとえその情報をつかんでいたとしても、 あまりの暑さだったので、 行こという気になったかどうかはわからないが。
 タクシードライバーも少し不親切だと思うし、知らなかったとしたら不勉強だっ。

 どこの国でもタクシーは旅行者の天敵だが、 一般的に親切なイラン人においても例外ではないが、
他では経験したことにないひどいタクシーにこの時を含め 3度も遭遇してしまった。
 どういうタクシーか。 最初に交渉して料金を決めてあったのにも関わらず、 下車時に釣り上げるのである。
 こんなことは初めてだった。 しかも1度といわず3度も。
 この時のタクシーがそれだった。
 「最初に決めた料金は片道だけ」 しかもそれにくわえて遺跡見学中の待機料金も別途請求された。
 私はすべて込みの積もりだったので、 頭に来てもはや25キロだろうが歩いて帰る、 と喧嘩になった。
 待機料金だけは引っ込めさせたが、気分は悪かった。 
 カゼルンではナンバーC9960HM1280のタクシーには乗らないことをお勧めする。

  カゼルンからアウワズ行のバスにちょうど良い時間帯のものがなく、 またしても夜行バスになってしまった。
イランに来てから1日おきに夜光バスに乗っていることになる。 体力もつだろか。

 待っている時間が長く(5時間以上待ったのだからやっぱりレリーフ見なかったのが悔やまれる。下調べは重要である)、 イラン人少年が群がってきてその対応にちょっと疲れた。
 21時出発で翌朝4時にアフワズ到着。
 

9月27日

 スーサ

  6時発車のローカルバスで日が昇り出す前に出発。 
2時間でスーサに到達。 バスステーションから遺跡まで徒歩10分。 
 しかしスーサの遺跡もがっかり。 旅行前読んだ資料ではエラム期から13世紀迄の大遺跡、とあったのに。
 確かに敷地は広大で東京ドームが5つか6つ入るかもしれないが、 説明の建看板はわずか4っつ。
 内1つは倒れていて、 英語で記述されているのは1つだけ。 
 ガイドブックによればパルティア人居住地区や ギリシャ人アクロポリス等、 役人地区、 王宮跡と 4っつに大きく区分されるそうであるが、
ちゃんとわかったのは王宮跡だけ。 
 王宮跡は土台部分がきれいすぎるくらいに整備されていて、 アケメネス朝時代と思われる大石柱の残骸がころがっていたが、
目当てのパルティア期、 ササン期のものは殆ど分からなかった。 
 あとの部分は 「これがそうかなぁ」 という程度。 殆ど崩れていてただの崖と遺跡の見分けがつかない。
 これは素人ではガイドに案内されないことにはわからない。
 遺跡はその場所に行くことに意義がある、 とつねづね言っているものの、 スーサは 「ま、行かないよりは行っといてよかったかなぁ」 という程度。
(帰国後新潮社 世界の歴史4 「オリエント世界の発展」にスーサの住居跡らしき遺跡の写真があり、 わりと探したのだが見逃してしまったのか、悔しい)

 スーサの近くにエラム時代のジグラットがあり、 バスステーション前でタクシーが何台も勧誘していた。
 見に行っても良かったが、 体調が不安なこともあり、 そのまままっすぐアフワズに戻ってホテルで午後は休むことにする。
 アフワズはむちゃくちゃ暑く、 午後2時頃昼飯に出かけたが、 殆ど商店は閉まっていた。
 暑くて夕方まで店じまいなのだろう、 通りはゴーストタウンの様であった。
 体調もちょっと熱っぽいかなという感じ、 とにかく午後はゆっくり部屋で寝ていた。 クーラーきいていて涼しいのはありがたいが 反って体調調節に苦労。
 翌日のモーニングコールを頼むとき、 言葉が通じなかったのでフロントのお姉さんとジェスチュアでやりとりしていたのだが、
その時にこのお姉さんのしぐさはおかしかった。 寝ているしぐさ→はっつと驚いた顔で飛び起きるしぐさ。 いやーイラン人女性面白いわ。

 夕方は外に食べに出る気もしなかったので、 ホテルのレストランで食べた。 予想通り高かった。
 夜中寝ていて汗が出る。 アフワズのホテルの水はどっちもお湯。 ケルマンシャーへの途中、 10時半に休憩に立ち寄った町でも、 トイレの水はお湯。
 とにかく熱い地方であった。
 

9月28日

 ケルマンシャー

  アフワズから9時間。 8時17分出発で17時ケルマンシャー到着。
 3列席の豪華バス。  バスの中フロント窓のところに なぜか人形の首だけ。 結構キモチラルイ。
アクセサリーの一種なのだろうけど。 
 バスで一緒になった学生に大学を見に来ないか、 といわれたが、 今日はやたらと疲れていたので断った。
 泊まる予定のホテルを告げ、 明日9時半に待ち合わせにしたが、 翌日10時まで待っても来なかった。

  バスステーションから乗った、タクシーの運ちゃんは結局ホテルを知らず、 メイダンの近くで停車して人に聞いたのだが結局そいつも知らず、
ところだ尋ねたそいつはホテルの人間で、 そこにする。 
 しかしこのドライバーのいやな奴。 乗車前の交渉の時、 最初に400を提示してきたのに対し学生が200だよといってくれたのだが、
まとまりそうもなかったので私が300でいいからとして、 運ちゃんもOKしたのに、 下りるときに 「ホテル探し手伝ったからあと100くれ」 だって。
 見つかっても無いのに払うわけないだろう、 と突っぱねると、 鼻の横に指をあてて 「ブー」というしぐさをされた。 
 きっとアカンべーなのだろう。

 ホテルは安かろう、 それなり、であった(今思うとコルラで泊まった宿に近い、 というよりブルガリアの私の部屋に近い、と言ったほうがいいかも知れない)。
凄く疲れていて一休みの積もりがねてしまう。 ふと目を覚ますと21時。
 ぱっぱっと意識がはっきりしてしまわないうちに着替えて寝る。 この日は夕飯パス。

  このあたりからバスに乗っている時、 いつのまにか昔見たアニメのテーマソングや ポップスなどが 頭のなかてリフレインされとまらなくなる現象が起りだした。
 イランは主にキカイダーのテーマソング。 中国ではベッドミドラーのローズ。 とかね。 
 トルコ旅行時は寝るときによく漫画のエリア88を思い出すことが多かった。 
もっというとトルコでは昔読んだマンガのストーリー、 イランでは子どもの頃見たテレビ番組の音楽の曲、 
中国では洋楽、映画の一部などがリフレインしていた。 ま、バスが長いと暇なのよね。
 
 

9月29日

 ホテルで10時まで待っても学生は来なかったので、タクシー拾ってササン朝のレリーフ、ターゲ・イ・ボスタンに行く。
アルダシール2世、 シャープール2世、ホスロー2世(とされている)の3っつのレリーフ。
 殆ど想像通りのものだった。 
 レリーフ自体はなかなかだったが、 この程度の遺跡が、 ササン朝の遺跡の中では著名であるということはなんだか残念である。
 「この程度の遺跡ならいたるところにある」、 という程度であって欲しいのだが。
 これではローマに対抗できる文明世界とは言い難いよ。 と勝手なことを考える。 ササン朝ごめんなさい。
 メルブのササン朝遺跡が大規模だったので、 かえって余計にササン朝の心臓部にきてこの程度? という感じもするのである。

  ここからハマダン間の街道途中に アケメネス朝のベヒストゥーン碑文、 セレウコス朝のヘラクレス像、
パルティア朝のアナーヒータ神殿遺跡があるとのことで、 行こうかどうしようか迷っていたところ、
ターゲ・イ・ボスタンの入り口にそれらの写真が展示されていた。 写真を見る限りではたいした遺跡ではないらしい。
 ロンリープラネットも アナーヒータ神殿はがっかりするよな柱があるだけ、 と言っているし。
そこでこの展示写真を撮影して済ませることにする。

 ハマダンへの移動中、 ベヒストゥーン碑文が バスの左の窓から数百メートルの地点に見えた。
 しかし修復中で足場が組まれていて、 マダーラ碑文状態だった。

  再びタクシー拾ってターミナルへ。 
 これも発車直前のテヘラン行きのバスに トイレも行けずに飛び乗ったので 3時間しかのらないのに 800レアルも取られてしまった。
 途中1時頃 昼飯休憩。 13時半ハマダン着。
 バスターミナルから中心まで歩けない距離でもなかったが、 大事をとってタクシーでゆく。 
というより、道を聞いた少年がタクシー呼んでしまったからなのだが。

 宿もほとんど捜さず、 最初に入ったホテルにしてしまう。 部屋をみてから少々値切る。
 ほんとはもっと値切ってもよかったきもするが あとの祭。
 トイレのドアが閉まらず、 においがもれてきて閉口した。 しかしこのホテルは屋上のテラスが展望台のように眺めがよく、
市街が一望できる。 これはラッキーだった。
 

 古代エクバターナ遺跡。 これも結構広大(東京ドーム1個分程度)だったし、 敷地内部に小さい博物館があったけど、 これもがっかり。
出土品を展示してある敷地内の博物館説明は すべてペルシャ文字表記でなにがなんだか。
 肝心のエクバターナ遺跡の復元模型は無いのに、 別の遺跡の復元模型があったり、 ハマダンの都市平面図等もなく、
 その代わりに発掘プランの平面図(この部分はフェーズ1、 この範囲はフェーズ2、とか) があったり。
 展示物もただ置いてあるだけ。 イスラム期の墓石や陶器の他はアケメネス期と思われる柱の土台があるだけ。
 この柱は黒曜石?なのかな? 黒い柱はいままであまり見た覚えもなかったので、収穫があったという気になったけど。

  遺跡は丘の一部が発掘されただけだが、 それでもかなりの遺構が残っているようだった。
しかし立て札があったところは一個所、 雨除けドームのかかっている部分で、 この部分はアレキサンダー以前の都市遺構とのこと。
 地面から2メートルほどの高さの遺構で、通り、家屋等が50mx20m程度発掘されていた。
 その他の部分はいつの時代のものだかまったく分からなかった。
 一部で数人の作業員が修復作業していた。 修復作業を実際に見るのははじめてである。 しかしそれは修復というより増築であった。

 ハマダンでは他に、 セルジューク王族の廟、 イラン3大がっかりの一つ(と言われているらしい)、 石のライオン等に行った。
 石のライオンは予想よりはマシだった。 ガイド本にあった通り、 子供たちが乗って遊んでいた。
 ライオンは甘露飴の様な質感。 緑の公園の中、夕日を浴びてオレンジの翳に縁取られた石像の存在感は 年輪を経た重厚さを携えていた。
 たとえ子供にまたがれて遊ばれていたとしても。

 シナゴーグも観光名所の一つであり、 ここにササン期期の墓があるとのことででかけたが、 この日は休み。
 翌日行けないこともなかったが、 結局行かずに終わった。
 セルジューク王族の廟はなんと中学校くらいの学校の校庭にあった。 
 学校の扉のところで首を突っ込んで覗いていると、 通りの人がみな 「入れ、入れ」 のジェスチュア。
 かまわず入る。 別に問題なさそう。 メルブにあったスルタンサンジャル廟(高さ40mのドーム)よりも小さかった(15m程度)が、
やはり形状は非常に似ている。 この廟を探している時、 イラン人にお茶に招待された。
 すぐに6,7人集まってきて、 そこは自動車修理工場のようであったが、 その隅のソファでお茶。
 でもお陰でちょっとわかりにくい 廟の場所を教えてもらえたのだった。
 (エクバターナ遺跡→セルジューク廟→ジナゴーグ→石のライオンの順で回った、石のライオンへ行く途中道を間違えてイブン・シーナー廟へ行っ
てしまった)

 夕飯時、 店の兄ちゃんに、 ボールペンくれないか、と言われて、あげた。 いままであげてもよさそうな、
親切な人はたくさんいたのになぜこいつに、 と自分でも不思議だったが、 あげてしまった。

19時50分、ホテルに帰り洗濯。20時38分。本日の作業全部終了。