朝8時半のバス。 天気はちょっと霞がかっているが上々。
国境でのチェック結構厳しい様でずさんな様で。 全員バスを下ろされ整列させられて、その間係官が
社内をチェック。 次に整列したわれたれの荷物をされぞれ開かせてチェック。しかし単に
鞄を開かせる程度で中身をしっかりチェックするわけでもない。
ところが、チェック後にトイレへ行ってきたのがまずかった。一度係官の眼の届かないところへ
行ったので、多分そこで何かを積み込んだのだろうと疑われたらしく、戻ってみると
部屋へ連れ込まれて 鞄の中身を全部机の上に出す様に言われた。
ま、しょーがないか。誤解を招くよーなことしちゃったし。 係官の態度は悪くなかったので、まぁよかった。
チェック終了後、他の乗客は免税店へ買い物に行ったが、特に買いたいものもなく、ぼーと待った。
結局2時間くらい停車していただろうか。ここで両替をしなかったので、国境を通過してからの最初
の休憩で何も買えないという失策を犯す。
10時35分ボーダー。 11時40分出国審査終了。 免税店へみなは行く。11時55分入国審査。
国境を越えても なだらかな山並みが続く。 日本でもよくある山のある風景。 バスはごとごとがたがたと
ゆっくり進んで行く。 国境を越える前も後も景色は変わらない。 しかしスコピエが近づくと、
突然西欧なみの高速道路が。 これもブルでは見れないもの。 ちょっと感動。
14時45分スコピエ着。 両替所とインフォメーションを探す。ちょっと高いと思ったが必要なので地図購入。
次いでオホリド行きバスの切符かって慌てる。 時差に気づいていなかったのだ。 15時の切符を買った時は既に
15時ちょうどくらい。 急いでバス停へゆくとバスは出てしまったところ。 慌てて切符売り場に確認へゆく。
しばらくしておばさん、私が時差を理解していないことに気が着く。 「あら?時差?えー!?」
切符売場のおばさん、 壁の時計を指差しながら笑っていた。
15時発のバスで 16時45分休憩 18時オホリド着。 ツーリストインフォメーションで民宿を紹介してもらう。
なるほど、オホリドは観光地である。 18時でもバスステーション際のインフォメは開いていて、観光資料に
あふれている。 しかもツェルナ・ゴラ(モンテネグロ)の観光パンフレットまである。珍しい。もらう。
マケドニアの地図ももらう。
一般の民家を紹介される。 インフォメの人が電話してくれ、宿の主人が迎えにきてくれた。
歩いて5分程度。湖の湖岸から2,30m内陸に入ったところにあった。
部屋とバス、トイレがどうやら 民宿はじめるにあたって改造したらしい。
20時頃までコーヒーとラキアごちそうになって親父に色々話を聞く。 インフォメでもらってきたマケドニアの地図を
だして観光名所や遺跡のレクチャーを受ける。 元々ブルガリア語だって半分くらいしかわからない
が、それでもおおむね発音は同じなので 身振りも含めればまあまあわかる。 特に 領土問題の部分は熱が入っていた。
ブルガリアの南西部はマケドニア領だといいたいらしい。 ユーゴ成立時にブルガリア領となった時の話。
奥さんは 「そんなことまで 旅行者にいわなくても 」と若干あきれ気味にだんなを見ていた。
家の中は すくなくとも日本の私の実家よりは裕福そう。CDとか最新のものは無いにしても、広い居間にオーディオセット。
壁一杯の本棚。テレビ。 ま、経済規模からすると1泊10$では金持ちになるだろう。
その後散歩にでる。 日は暮れたばかりで、まだ薄明るいが直ぐに真っ暗になる。
繁華街は3,400mしかないが、観光地特有の賑わいを見せている。 英語がよくつうじると言われていたが、実際その通りで、
雑貨屋の売店の娘もきちんとした会話をしていた。
堤防の先までいってみる。 親父に紹介してもらったレストランに入る。 宿の親父にうなぎがおいしいといわれて薦められていたのだが、
一人では分量が多すぎるし、高すぎる。 ということで別の魚料理にする。 23時戻る。
6時起床。 6時45出発。 出掛けにコーヒーごちそうになる。
まだ日は昇っていない、夜明けの薄明かりの中、小船が静かな湖面に浮いている。 湖面の遥か稜線が夜明けの光にオレンジに染まっている。
湖岸の公園ではオレンジの制服を着たゴミそうじの人たちがてきぱきと作業をしていた。 ごみだらけのブルガリアでは
ちょっとみられない情景。 思わず写真を撮ってしまう。
湖沿いにスヴェティ・ヨアン・カネオ寺院(聖イヴァン教会)へ。外城の東門をくぐり旧市街へ入る。
遺跡のある、旧市街の丘の中腹にある 開いたばっかりの店でパンを買う。
断崖の上から見ると船の影が湖底にあたって見える。 上ったばかりの朝日が 澄んだ湖水をすりぬけ 湖底に反射してきらきらと 輝きを見せている。
スヴェティ・ヨアン・カネオは 思ったより 小さかった。 湖岸に張り出した断崖の上にちょこんと鎮座している感じ。
「地中海紀行ビザンティンで行こう!」で、「必ず誰もがここで写真をとる」 と書かれていたところでは、やっぱり思わず 撮影してしまう。
ヨアン寺院のところから 丘を上って 恐らくはビザンツの教会と ローマ時代のバシリカ跡を見て 丘の上の サムイルの城塞へ。
城塞の門を入ったところでは舞台と客席の準備が行われており、作業員がせっせと仕事をしていた。
城塞は二つのパートからなっていた。 正門は南面しており、南北に長方形をしていて ちょうど中間が壁で仕切られている。 つまり
正方形の区画が2つ南北に連なっている。 手前の区画が丘の頂上部分で、 野外劇場の準備がなされていた。 恐らく夜間 劇でもやるのだろう。
北側の区画は既に丘の斜面となっており、北へむかって下っている。 城壁に沿って一周してみる。 南側と西側に湖面が展開している。
北側にはオホリドの郊外というべき住宅地が並んでいる。 東側には昨夜泊まった民宿のあるオホリド市街の中心地がある。
全体としては諏訪に近い規模・ロケーションといえるかも。しかし湖水の美しさと 景観は比較にならない。
今まで訪問した範囲内では バルカン半島NO1である。
北門からでて外城壁沿いに丘を降る。 丘を下りきったところに東門があり、ここから丘側が旧市街。
そのまま旧市街へ引き返し、旧市街の建てこんだ住宅街にある二つの小さな教会を見る。
ここには ステファン・ドゥシャン夫妻の14世紀のフレスコ画があった。へぇー。 セルビアゆかりのものがみれるなんて。 ちょっと感激。
もう一度丘へのぼり、二つの中世の、比較的大きな教会を見る。
一つは劇場が庭にあるやつ(聖ソフィア教会)。 もう一つの方(聖クレメント教会。名前からしてキリルの弟子でブルガリアへ
キリル文字を導入し、ボリス治下の文芸興隆に貢献したクレメンスゆかりの教会だと思われる) ではミサが行われていたのでちょっと入ってみる。
クレメント教会そばにある円形劇場跡をみながらもう一度丘を降る。
民族博物館に入る。 19世紀の屋敷を利用していて、これはブルガリアにもよくある形式の住宅。
古代ローマの遺物も結構あった。 一階は古代ローマ時代の遺物で、墓石や碑文が多かった。
2階は確か 古代から中世のコインや日用品などの出土物。
3、4階は復興期の住居の内装、家具をそのまま展示する民族展示だったと思う。
10時。さ、スコピエへ戻ろうとしていたところ、遊覧船(の客引き)につかまる。 値切る。
別に乗る必要なかったから。 昨夜もさそわれ、100でOKといわれたといって たしか200までは値切れた記憶がある。
ボートとしか言い様の無い小船。 おばちゃんが乗りこんでくる。 一応ガイドということらしい。
ここでは見通しがいい時は20mまで見通せる、世界第2位の透明度なのだそうだ(一位はバイカル湖)。このときも
大体10mくらいは見えていたらしい(この数字、だまされているのかどうかわからない。通常の水の透明度がわからないので)。
湖の反対側はギリシャかと思っていたら、アルバニアなのだそうだ。
しかたが無いので乗りこんだのだが、聖イヴァン教会を湖側から見れたのは収穫だった。
10時40分バスステーションへ。10時50分発車。 14時15分スコピエへ。
昨日買った地図によると、バスステーションのすぐ北の丘には歴史博物館があることになっている。
早速 丘を上がっていって 歴史博物館をさがすが そんなものないとのこと。 丘の上には現代美術館があった。
この丘の南側にあるビザンツ要塞から断崖の下の河川敷にプールが見える。 暑い。 はいりたーいよーん。
ビザンツ要塞は修復されすぎ。特に西と南の、丘のしたから見える、見栄えのする部分はほとんど創作なんじゃないの?
というくらい興冷め。 しかし北側の、馬回しとでもいうんだっけ、城塞への登り通路側の部分は あんまり
目立たないからか、補強工事程度の修復と思われ、こちらの方が リアルに感じられる。
丘を下り旧市街へ。ジャーミーのそばを通過し、バザールへ。バザールみてローマ時代のスクピ遺跡へ行くことにするが、
ぼりぼりたくしー にひっかかる。 いきなり反対方向に走り出す。 メーターもあげない、
わかる、と言いつつ スコピエ遺跡の場所も知らない。 最低なドライバーだった。
最後は「あれがそうだ」、と丘の上のモニュメントを指し そこで下ろされる。 近代的なモニュメントが遺跡に
あったりすることは よくあるので、信じた私が馬鹿だった。 そこはなにかの公共施設(研究所か水道局みたいな感じ)。
おかげでこの丘中を畑や林の中を遺跡を探して1時間探し回ることに。
暑くってたまらない。 ジュースー、水ー、ひゃー。 もうあきらめようともおもったが、ガソリンスタンドのにいちゃんが知っていた。
17時半、 丘の中腹。捜索していた方向とは反対の斜面にやっとみつかる。
丘の麓の道を 挟んで向かいのサナトリウムみたいな施設にも遺跡があった。 サナトリウムなのか老人ホームなのか。
精神薄弱のような 太っちょの青年が、サナトリウムの 医者の元に私を連れていってくれたおかげで、
その老女の医者は 私が目的としているものが すぐわかり、先ほどの青年に施設の裏庭に私を案内させてくれた。
別に失礼なことをしたわけではない。 非常識なことをしたとも思えない。
しかし高々趣味の遺跡訪問で こうした施設にずかずかはいって行くことは どうなのか?
理屈ではどうかんがえても、 断られたわけでも、迷惑そうな扱いを受けたわけでもなく、 「古代遺跡? あ、裏庭に
あるあれのことね? ちょっと案内してあげて」という感じで扱われたし 問題無いように思えるが、
自分の行為が恥ずかしいとまでは言わないが、 どこかで内なる自分が
「遺跡見学の趣味ねー、お気楽だよね。世間では そんな余裕が無い人たちが沢山いるのに」 と冷ややかに眺めるのだ。
ま、私のやってることはその程度のことでしかないことは 間違いない。
次は水道。 結構歩いたけど こちらわ比較的すんなりと 18時10分頃到達。 帰りは市バスで戻る。 バスを
待っている時、市内地図を眺めていると、どう見ても現地人としか思えない30くらいのおっさんに、こう書いて
自分は31なので おっさん になってしまうので、訂正-30くらいのふけた青年に「その地図ちょっと見せてくれ。どこで買ったの?」と
なんかけっこう真剣としか思えない感じで尋ねられた。 なんだろう?地図が手に入りにくいのだろうか?
予想以上にきちんとのこっていた。トルコ時代修復されてつかわれていたのかも知れない。
19時30頃ホテルへ。ちょっと高かった(52ドル)けどもうさがす気力がない。さんざん歩いて疲れまくっている。
ホテルのレストランで食事。 従業員が食べている料理がうまそうで、それをくれ、とそれにしてもらう。 グーラッシュだった。
スコピエビールが 疲れていたことも、すごく冷えていたことともあってうまかった。 こんなにビールがうまく感じることはそう何度もないであろう。
この後駅まで歩く。日はとっぷりとく暮れている。
市博物館の場所を確かめてドイツ方面国際バスステーション近くの花屋を過ぎて、鉄道駅まで歩く。結構遠い。
鉄道駅は珍しく橋上。日本の駅みたい。
その後バスでセンターまで戻りショッピングセンターを見学。
いやーまるっきり先進国の複合ショッピングセンター(ターミネーター2に出てくるようなやつね)。 感動してうろうろ。 中庭はオープンカフェに
なっていて若い男女で大賑わい( ジガーバーとかキリンシティ を思い浮かべてください。少なくとも1998年夏まではブルガリアにはこうした施設はまだ存在していなかった ) 。
22時半ホテルに戻る。
7時10分起床。 歴史博物館へ行くが、今日は休みだとのこと。
旧市街を散歩して市の(考古学?)博物館へ一応行くけど、なんかやってないみたい。
仕方が無いので 本屋で歴史の本を調べる。 遺跡の図面とかの載っている本があったけれども70ドルもした。
うーん。マケドニアには比較的見れる規模の遺跡は少ないことがわかってきたし、たった数カ所の遺跡の為に70ドルも出せないし、
カラー写真もあるけど、 表紙だけは立派なハードカヴァーで分厚いけど、中身はわら半紙みたいな紙で時折立派なカラー写真の
ページがある程度。 旧ユーゴ全体の遺跡を扱っているのであれば買ったかもしれないが、マケドニアの数カ所だけでは-それに
関しては非常に詳細であるにしても-ちょっと。。。 しかもマケドニア語だし。ということでマケドニアローマ遺跡決定版の本は買わなかった。
マケドニア王国を扱った本もあった。アレクサンダー以前の5世紀頃からの歴史を扱ったマケドニア王国の通史の本みたいだった。
現マケドニアとアレクサンダーの王国とは場所が重複している程度で直接の繋がりは何もない筈なのだが、
既に現マケドニアのアイデンティティを構成する要素になってしまっているのかもしれない。
サムイルは完全にマケドニア共和国の歴史上の人物に位置付けられているし。
バスチケット買ったあとあまった通貨を再両替。てこずる。 ターミナル近くの銀行・両替屋ではドルへの両替はしてくれない。
これでなんとなくマケドニアがいやになってしまった。一刻も早くマケドニアを去りたい。スコピエのイメージは地に堕ちた(今となっては
べつにどうってことないけど、このときは頭にきていた)。 新市街の繁華街の中心部まで行ってやっとドルへ両替してくれる店を見つける。
11時発。 15時20分ニシュ着。 高速道路で一直線。 国境では係官が乗りこんできてパスポートチェックしてあっさり終わり。
ニシュのバスターミナルには両替所はないのでバスステーションで換金してもらう。
換金してくれた人は、ニシュの歴史的名所についてたずねるとオスマントルコにセルビア人が虐殺された事件の場所へ行く様に薦められた。
バスターミナル近くの五稜郭の様なオスマン要塞を見学したあと、メディアナ遺跡へ。一度バスを乗り間違えてしまい一周して街中へ戻ってきてしまう。
バスの運ちゃんはなかなか私が降りないのでちょっと怪訝そうだった。
2度目は英語のできる夫人がたまたまバスに乗っていて、お陰で目指す停留所で下車、遺跡の場所も教えてもらう。
英語教師かなにかですか?と尋ねたら、「いーえ。高校の時ならっただけよ」 とか。うーん。日本の英語教育とは大違い。かっこいい。 すばらしい。
遺跡はニシュから東へ一直線のバス通り沿い、2つのバス停の中間にあり、南側は1キロ先が山、北側も数キロ先が山という一応平原にある。
遺跡自体は閉館時間を過ぎていたらしくしまって、入り口を入ったところで農作業をしていたおばさんに「しまってるよ」と言われたが、
遺跡を見るだけで出土物を集めてある展示小屋は見なくてもいい、ということで遺跡自体は見ることができた。
敷地自体は鉄線で1キロ四方囲まれていて、きっと敷地内のあちこちで出土物があるのだろうが、どこになにかがあるかわからないので、
この広大な敷地をいちいち見て廻る時間もなく、展示館の前の一番遺構が残っていると考えられる部分だけ見る。
メディアナと呼ばれる遺跡は古代のナイススなのか、ナイスス郊外のヴィラなのか。またコンスタンティン1世の出身地というのは本当なのか、
本当とすればどっちなのか。
18時15分センターに戻る。 ベオグラード行き切符購入してから大急ぎでマックまで往復。 マック前にホテルがあるが、値段が高すぎる
(といってもいくらだったか覚えていない。少なくともスコピエより高額だったので60$以上はしたきがする)。
隣のスタンドでジュース一気のみ。やけにおいしく感じられた。 19時発 22時半ベオグラード着。
ビール買って、ホテルを探して。 目当てのホテルが満室だったこともあり、ちょっとホテルさがしに手間取り、
夕飯食いそこなう。 23時15分、ホテル着。 確か30$くらいだったと思う。朝食付き。思ったより高くはなかった。
ロビーにインド人団体客が。 消灯後フロントから電話。パスポートに200$がはさんであったとのこと。
そう言えば挟んだまま忘れてたっけ。 なんてちゃんとしたホテルなんだ。 そのまま盗られてしまってもしかたがないケースなのに。
お礼にコーヒーでもとチップ渡す。
7時20分起床。地下の食堂で朝食。 先にバスチケットを購入する。601番のバスで市バス終点のスルッケ町へ。
スルッケ町のバザールをみてそのまま引き返し、ベオグラードの新市街を散歩。 やたら広い。道路も区画も建物も。 ここと幕張を
比べると 日本の密集住宅と 米国の郊外一戸建てくらい違う。
サヴァ川とドナウの合流点近く、カレのよく見えるカフェで休憩。 ジュースとショップスカサラダ。
次いで要塞へ。 ベンチに寝転がって30分休憩。 カレを一通り見学してから繁華街へ。
昼飯を食ったサンドイッチスタンドのおばさんが僕のマニキュアを見て大喜び、星座は?と聞かれ、水瓶、と答えると水瓶だってさ、
と同僚に言い大喜びしてた。これはブルガリアで友達にふざけて塗られてしまったものだが、これまで全然だれにも注目されなかったのでちょっとがっかりしていたのだ。
繁華街でセルビア歴史地図帳を購入、ビールを飲んでいるときに日本人留学生と会い、セルビアについて色々教えてもらう。
16時から歴史博物館へ。遺物のほとんどがマケドニアのストビ遺跡からの遺物。 ファサードがいくつもあった。 博物館の展示遺物を見ている限り、
セルビア自体にはあまり規模の大きいローマ遺跡はなさそうである。
留学生に紹介してもらったレストラン街へ行く。ここら辺のレストラン街は皆テラスがあり野外席がある。
最初に入った店ではウェイターと喧嘩になって出てきてしまう。 ビールだけ注文してからゆっくり料理を選びたかったのにそれはだめとか言うのだ。
ひょっとしたら差別で意図的に喧嘩吹っかけられたのかも。 確かにラフな格好だけど、身なりは悪くなかったはずだけど。
2件目。 ここに決定。 量が多い。 残りはとおりかかったジプシーの子どもにあげた。野外テラスってけっこう便利。
向かいの店では野外席で客の親父が店のやとったジプシー風の楽隊にかこまれきもちよさそうに踊っている。
いい気になりすぎて最後にグラスを路面に叩き割っていた。 ま、イタリア映画とかでよく見るシーン。だけどその客がタクシー呼んで
帰ったあと、そうじに出てきた店員にオーナーと思われるマダムが客の悪態をついていた。
21時半バスターミナル。22時30分発車。本当はもう一日くらいいてノーヴィ・パザールの方へ行きたかったのだが、明日昼の用事ははずせないので
帰らなくてはならない。仕方がない。
7月22日
2時15分ニシュ着。 5時までバスステーションのベンチでうとうと。 5時発のソフィア行き。
7時43分ボーダーへ。ほとんど眠っている。途中で通過した村。ブルガリアによくある地方の村と同じ感じ。
9時10分出国。 マケドニア入国時スタンプを押されなかったので、係官にマケドニアから入国したのかね?と聞かれ、マケドニア語はどこでならったんだ?と聞かれた。
フーン。ブルガリア語とは見分けがつかないわけね? 確かにマケドニアではけっこう通じたが、セルビアでは殆どだめだった。慣れればもう少しまし
かもしれないが、ひどく訛って聞こえるのだ。セルビア人にしてもそうだったのかもしれない。
13時ころソフィア着。どの方向からソフィアに向かっているのか、市街に入るまでよくわからなかった。 旅行代理店よって家に戻る。午後は寝る。