広州の史跡


明清時代の広州


紹介



広州の北京街という、新宿歩行者 天国のような 繁華街に、宋~清時代の大通りの遺構(北京路千年古道という)が 保存されています。

写真左のように、繁華街の中央に、ガラスの天井をつけて、当時の路面遺跡を見学できるようになっています。

写真右をみるとわかるかと思うのですがm、手前が明代の路面。右奥が宋代の路面で、高さが40cmくらい違います。幅が広い ところで、40cm、狭いとこ ろで20cmくらいでしょうか。

前の時代の路面の上に、新しい路面を重ねていったことがよくわかります。

広州は、南越国の時代、番禺といい、後漢の203年、交州と改称された。三国呉の時代、交州は、広州と交州に分割され、今の 広州市が広州となった。ほぼ 2200年間、ほぼ同じ場所に政庁と町が置かれた。

 写真左は、南越王宮署の、唐代の井戸の遺構。

 写真左は、明代の城壁。越秀公園内、広州市博物館そばにある。

 下の左右は、広州省博物館に展示されていた、宋明清時代いづれかの時代の舟橋の模型。舟 橋というものの実物を見たことが無かったため、珍しくて撮影。結構安定しているように見える。

 広州は別名羊城とも、花城とも、穗城と も言った。前214年、秦が南海郡を置き、その治所として番禺を置いた。これが(今の州の始まりである。前206年、秦の崩壊とともに、趙佗が南越国を建国した。周 囲十里に及ぶ城を築いた。前111年、漢が南越を征服、旧南越の地を南海郡など9つの郡に分けた。 紀元 226年、孫権が交州と広州を置き、合浦郡以南を交州とし、合浦以北を広州とした。広州の名はここに由来する。


 

 隋は総管府を置き、唐初に引き継がれた。627年、唐は全国を 10道にわけ、広州に岭南道の治所を置いた。宋代には広南東路が設置され、治所はやはり広州に置かれた。元代になると、 江西行省に広東道を置き広州路等14路を管轄させた。明代になると広州府が設置された。清代には広東省となった。広州州 府など9府が管轄された。省、府治は、今の広州にあった。

 下中央写真は、光考寺の大雄宝 殿。唐代建築様式とされる(建築年代不明)。その下の鉄塔は、五代南漢時代の10世紀後半の製作。

 

  下はイスラムモスクである懐聖 寺の光塔。唐代の建立とされる。

 右下は、六榕寺の花塔。57m。 989年の建設。

 他にも、徳政中路(中山五路)に 唐宋南漢時代の、三叠城の遺跡、排水施設の遺構として、唐代の排水渠石构件、宋代の六脉渠(宋明)、玉帯河、西濠が残 る。これら排水施設は、現代も重要な排水路をなしている。

 広 州市遺跡一覧はこちらにありますこ ちらにも若干の解説あり

大 通烟雨井

     

 宋、元都 代々広州は羊城と呼ばれ、その八景の一つに“大通烟雨”という井戸があった。2004年、大通寺の基壇の地下から、 烟雨井が発見されたとのこと。“大通烟雨”は現在の芳村大道の東にあり、大通寺は南漢時代、宝光寺と言い、当?広州 城の南の南七寺のうちの一つだった。大通寺は、白?潭に面していて、背後には大通港があった。古籍の記載によると、 烟雨井は大通寺の中にあったが、日本軍が芳村を占領している間に大通寺は破壊され、廃墟となった。

井戸は保存状態もよ く、直径約1m、内径は93cm。発見時は、まだ水が残っていて、干上がる直前だったとのこと。

 

 旅行情報、近隣の史跡・遺跡
遺跡の 場所について は、こちらに地図がありますのでご覧ください。
近隣の遺跡としては、前漢時代の南越王国2代目国王の墓の遺跡、 南越王国から清時代までの王宮 の遺跡があります。南越王国のものはこちら南漢王 国のものはこちら。更に、南越~漢の ころの水門の遺跡があります。他に南漢国王の墓が2つあるらしいが、場所については未調査。
GoogleEarthの場所は以下。  23° 7'38.38"N  113°15'48.82"E  BACK
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