南越木構水閘遺跡(南越木构水闸遺跡)


紹介


西漢南越王墓に て概要を記載した南越王国(前 206〜111)のから漢時代の水門の遺跡です。珠江からの水を保持しておくダムの役目と、海からの海水の浸入を防ぐ目的で 建設されました。

この水門は、当時の王宮の遺跡から、300メートル程の地点にあり、現在の水路から北に1km程の地点にあります。当時の珠 江は、恐らく堤防工事がなされ ていないか、または、当時の技術での堤防工事であったため、現在の川幅rと比べると4倍くらいの幅があったようです。このた め、このあたりまで、河が広 がっていたようです。晋・南朝、唐、宋、明、清と時代が下るごとに、川幅が狭まっていったようです。左したに、代々の広州の 町の城壁の範囲を描いた図の写 真がありますが、川幅の縮小にともない、町が広がっていったことがわかります。

水門遺跡は、現在では、光明広場というデパートの地下にあ ります。写真 上は、デパートの1階。女の子が覗き込んでいるところは、ガラス張りの天井となっていて、地下の遺跡を見下ろすことができま す。手前には、遺跡の説明が置 かれています。

写真右上は、地下へ向かうエスカレータ。南越木构水闸遺跡と記載されています。エスカレータを降りると、右写真のように、フ ロアの真ん中に、ガラス窓で囲 まれて遺跡が保存されていて、周囲の回廊の壁に、写真や発掘された磁器などの遺物や、構造解説資料などが展示されています。 この解説によると、上海や北京 に、元代の水利遺跡が残されているようです。
下の2枚の写真は遺跡の写真です。全体像がわかりにくいた め、5段目右 の写 真のような、遺跡復元模型が作られています。水門のゲートの幅は5メートル程で、あまり広くはありません。現在も、珠江の水 門は作られており、その写真も 展示されていました。
下写真は、歴代の町をあらわしています。真ん中の一番小さ い四角が、 秦代の広州(当時の名:番禺)。一つ外側の四角が南越王国、更に南越時代の城壁に重なるようにして、少し大きな四角が、漢 代。だったと思うのですが、記憶 があやふやになっています。確か、秦、南越、漢、晋・南朝・唐、南漢・明・清とあった記憶があるのですが、写真のラインの数 が一致しません。写真がぶれて いるせいもあるとは思うのですが、正確な情報が記載できない状況です。一番外は清、その一つ内側が明代のものだったと思うの ですが、そうなると、南朝、 唐、南漢時代のものがなくなってしまいます。もう一度広州に行くことがあったら、メモを記載して来ようと思います。


旅行情報、近隣の史跡・遺跡
下段左は、後漢時代の水門材料の木材

下段中は、古代の水路。
遺跡の場所について は、こちらに地図がありますので ご覧ください。
近隣の遺跡としては、前漢時代の南越王国2代 目国王の墓の遺跡、 南越王国から清時代までの王宮 の遺跡があります。南越王国のものはこちら南漢 王国はこちらです。また宋元明代の道路の遺構も あります。他に南漢国王の墓が2つ あるらしいが、場所については未調 査。

GoogleEarthの場所は以下。  23° 7'30.87"N  113°15'45.04"E


 
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