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【国家】
ササン朝初期は多くの従属王朝があっ た。これらの諸王国は次第に中央政府に集権化され、ササン朝末期に4州制度になり中央派遣の総督によって統治されるようになった。アルダシールの征服事業は 各地の領主を滅ぼすものではなく、服属させることが目的だった。恐らく それ以上 は不可能であったと思われる。パルティアとササン朝の大きな相違点の一つとして、パルティアは封建国家、ササン朝は中央集権国家と特 徴ずけられるが、ササ ン朝の登場によって突然政治社会体制が変革されたわけではなく、少なくとも初期のササン朝は政治体制としては パルティアからあまり 離れたものではなかっ たと考えられる。 アルダシールの国家統一にあたり、アディアバネやキルククの王がアルダシールの征服事業に対 パルティア十字軍的な感覚で 参加したともとれる記録があり、アルダシールの統一は日本で言えば足利尊氏の室町幕 府による統合に近いものがあるので はなかろうか。 末期 パルティアとおおきく異なる点は、アルダシールの王権がパルティアの王よりも強力であり、一部の地方王国については、王子を王或いは 知事として、統治者と 送りこみ、更に一定の期限で別の領国へ 転勤させる運用を行い得た という部分ではなかろうかと思われる。 かれらが宮廷を構成して いる貴族達だった。
例えばギーラーンやカスピ東岸のゴルガーンやホラズムはアルダシール1世時代には服属していただけだ が、シャー プール1世は軍事的に征服したようである。しかし多くのアルダシール時代に任命されたシャープールの兄弟達がそのまま統治していた。 トランスコーカサスは 地元の王が統治していた(この地域ではグルジアとアルメニアだけがササン王家に統治者に統治された)。この王族による分国の統治という傾向が加速されるのはシャープール1世時代のことである。 これは 推測であ るが、4世紀末から宮廷の貴族達が王を廃ししたり、弑逆する事態が増えてくるが、このような宮廷陰謀の増加は、逆に地 方領主な どの宮廷貴族化と いう現象を現しているのではなかろうか? これを裏図ける現象の一つとしては、シャープール1世没後、王位継承の内乱は 各地方領国 の統治者という背景を もった王族により引き起こされており、そこには多分に 半ば独立した国家のササン王国に対する対抗と独 立という意識が 背後にあると思われる が、シャープール2世後に度々発 生した王位継承時の混乱では、 王子達の背後にあるのは最早地方王国ではないように思われる。
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アルダシール時代 | アアディアバネ、キルクク、クシャン、ツーラーン、バフレインの海岸地方と諸 島、ブレーナグ、マルブ、カラマニア、サカスターン、ギーラーン、カスピ東岸 |
シャープール時代 | アディアバネ(現イラク北部)、イベリア(グルジア)、ペ ルシス、パルタ
ヴァ(パルティア)、スシアナ、メセネ(クウェート付近)、アスーレスターン(アッシリアの意味。メソポタミア地方)、アラ
ビア、バラーサガーン(カスピ海西岸)、アルメニア、セガン(マケロニア)、アラン(現アゼルバイジャン)、アトゥルパータ
カーン (アトロパテネ:現 イランのアゼルバイジャン地方)、カープ(コーカサス の
山々)、メルブ、アルバニアの門、パレシャフバール(エルブルス山脈)、メディア、グルガーン、ヘラート、アバルシャヒル(ホラサーン地方・ニシャプール周辺)、
カルマニア(ケルマーン)、サカスターン(シースターン)、ツグラーン(トゥーラーン)、マクラーン、パルダーン(現アフガ
ニスタン東南カンダハール周辺)、ヒンド、ク シャンシャヒル、パシュカブール(現ペシャワール)、カシュ(カシュガル)、
スグド(ソグド)、チャーチの 山々(タシュケントだと思われる)、ウマーン (オマーン) ※これらの地は、シャープール一世のナクシェ・ロスタム碑文の 冒頭部分の記載されている(ただし、上のアトゥルパータカーン の み同碑文に見えないが、総督の封泥などが出土している)。 ※※これらの王国の一部は代官によって治められ、別の一部は地方政権によっ て治 められ た。メディア、グルガンと辺境は王領(英訳でside(傍の地)と呼ばれた)として現地の役人(英訳:rulers of the side)により治められた。 |
ナルセス時代 | スパンドゥルターン、マクラーン、アブヒラ |
シャープール二世時代 |
同時代のローマ時代の史家アンミアヌス・マルケリヌスの「歴史」23巻の第六章に記載がある(こちら)。 |
晩期サーサーン朝 |
「エーラーン・シャフルの州都のカタログ」という中世パフレヴィー語文献が残る(要約はこちら) |
王国名 |
現地名 |
解説 |
サカスターン王国
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現シースターン
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インドーパルティア王国に遡る王朝。クーイカージャ に 宮殿があった。アルダシールという名の王がいたらしい。サカスターン、トゥーレスターン、ヒンドがシャープール1世の子ナル セスに与えられた。その後 (274年以降)バフラーム1世の子バフラーム2世に与えられた。バフラーム2世時代ホルミズドの叛乱に加わった。恐らくそ の時ホルミズドはサカ王であっ たと思われる。叛乱鎮圧後、同3に与えられた。王国は少なくとも326年まで存続した。アルダシール時代は王国だったが シャープール1世時代に州(シャフ ル)に格下げ。 |
ギーラーン王国 マルブ王国 アブレーナグ王国 |
現ギーラーン地方 現メルブ
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シャープール1世子バフラーム1世に与えられた。 アルダシール1世がアルダシールという名の息子か兄弟を封じた。しかしメルブは外 藩国だ と思われる。シャープール1世時代に廃止。 シャープール1世時代に廃止。 シャープール1世子バフラームに与えられた。 |
アルメニア王国 | 現アルメニア | シャープール1世子ホルミズド・アルダシールに与えられた。大王と名乗った。
ヤズドギルド1世子シャープール。 |
アディアバネ王国 ケルマーン王国 グルジア王国 メセネ王国 |
アルダシールが子アルダシールを封じた。シャープール時代もそのまま統治。
アルダシールが別の子アルダシールを封じた。シャープール時代もそのまま統治。 アルダシール時代に封じられたアマザスプがシャープール時代もそのまま統治。王族 だと思 われる。 シャープール1世長男シャープールに与えられた。 |
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エリマイス王国 | 現クウェート付近 | 4世紀中頃まで独立国として存続 |
クシャン王国 | 現アフガニスタンからウズベキスタン東部 |
シャープール1世時代 宗主権を認めたが、必ずしも強力に統合されたわけでは
な
い。当時クシャン朝はタシュケントやカシュガル(又はケッシュ)、ペシャワールを版図に納めていたので、自動的にシャープー
ルは自らの版図をカシュガル、 ペシャワールを含むものと考えた。 シャープール2世時代子のアルダシール2世に与えられ、副王格として位置付けられ た。 アルダシール2世子ペーローズとホルミズドに与えられた。 |
ラハム王国 | 現サウディアラビア |
アラブ人王国 |
イエメン | 現イエメン |
アラブ人王国。576年以降ササン朝知事が統治 |
サーサーン朝末期の勢力圏は、アラビア海からインド洋まで広く広がっていた模様。ホスロー1世は575年イエメンを占領。また、626年に は南インドのプラケシン王から使節がホスロー2世の元を訪れたとの記録があるとのこと(前島信次「イスラム世界」河出書房新社p54)。
【称号】
マルカーン・マ ルカ・イラ ン・ワ・アニーラン(イランと非イランの地の諸王の王) 260年頃採用された称号【王位継承】
非イランとは マケドニア、アンティオキア、シリア、小アジ ア、アル メニア、リベリア、バラーサガーン、アランの門
マリクの称号は王家の成員と辺境統治者(アラン、ホラズム、 カブー ル)に許されていた。(マルクの称号は古代メソポタミア時代からある称号)。以下はサーサン朝初期の王と先祖の称号の変遷。サーサーン 領主
バーバク(サーサーンの息 子)の称号:王(シャー):パールス王(ファールス(ペルシア)地方)の王
アルダシール大王(バーバクの子)の称号:諸王の王(シャー ハーン・シャーフ) :イラン国王の称号
シャープール1世(アルダシールの子):イランと非イランの 諸王の王(マルカーン・マルカ・イラン・ワ・アニーラン):イラン国の領域を超えた大帝国の王としての称号)
中国の「周書」には、王の称号は「医囋」(イサツ?)とある。 王子は「殺 野」で、「シャー」に相当すると思わ れる。皇后は「防歩率」は、アルメニア資料による、「Bambish(バンビッシュ)」に相当する とされている。
王位継承のメカニズムと貴族と聖職者が果たす役割はササン朝滅亡の時まであまり変 わってはい ない。王朝の最後に至るまで、ササン家のメンバーが統治者であり、貴族や聖職者の連携がササン王家の王子ではない叛乱者によって勝ち取ら れたことは殆どな い。バフラームチョービーンのケースはユニークであり、最終的にはホスロー2世に対して、貴族の支援の確保に失敗している。実際に力のあ る統治者は彼の後 継者を決め、自身の死の前に後継者のために聖職者と貴族の支援を確保するけれども、2つのクラスの支援が常に必要であり、王子はその器量 によって支配する に足る体によって彼らを満足させなければならない。殆どの場合、州を統治することで、能力を証明することが諸王の王の座に座る事前に必要 なことだった。バ フラームグールは州を統治してはいなかったが、彼はその力量によって、彼がヤズダギルドの後継者にふさわしいと貴族達に示してみせた。
戴冠式と王位継承は一致してはいない。戴冠式は占星術上よい日取りが決められるのであって、選ばれた日が くるまで は戴冠式が行われない。
「旧唐書」の「西 戎伝」波斯の条に(「魏書」、「周書」、「北史」の波斯の条にも同じ記載が掲載されてい る)、その王即位して直ぐに、能力のある後継者を密かに選び、その名を書に書き、それを封印して倉庫に置く。王の死後大臣と王子 達はその封を開け、これを見、書の奉る者を主と為す」とある。なお、これとほぼ同じ制度を清朝雍正帝が「太子密建制度(秘密建 儲)」として取り入れてる。清朝の場合は、紫禁城の執政室の「正大光明」の額の後ろに入れておく、というもので、皇帝が随時書き 換え可能だった、という記憶がある(その後、懿旨建儲制に移行したらしいが、懿旨建儲制の詳細は不明)。
国家組織の変革は主に4世紀と6世紀の2つの時期に集中し ている。 初 期の頃は30近い州と王国、地方領主に分かれていたが、次第に統合され、5世紀にはほぼ中央政府に統括されるようになったようであ る。6世紀には更に4つ の州に再編され完全な中央集権政府のもとに統合されるようになった。 貴族には4ランクがあり、最上位のランクの貴族は各地方王国の 王や、王家出身長官達 だった。azadan(アーザーダーン)は4階層目。ササン朝時代の行政政治組織は、同時代史料が少ないため、同じような役割をもつ 役職名が多数史料に見 られ、その関連は明白ではない。したがって、以下の記載でも、同じような職掌の役職名が複数混在している。
(3世紀)
フラマンタール(宰相)の最初の記録は バフラーム3世 を王位につけようと画策したヴァフナムに登場している・彼は恐らくシャープール1世の碑文に登場しているフラマンタールのヴァフ ナムと同一人物かも知れな い。フラマンタールは最初は王家の家宰だったが、やがて王家の管財人となり、ササン朝内における独立王国の消滅とともに、帝国の 宰相となったと考えられ る。シャープール1世の碑文には、Astadという書記の名前が見えており、ハトラのAbasaというDibirは、既に書記と いうより知事という身分で ある。ドゥラ・エウロボスのシナゴーグの碑文では、多くの書記の氏名の記載された史料がある。ナルセスのパイクリ碑文には、財務 官(財務を扱う書記)の氏 名が出ている。徴税官の長が、ノールーズでは、聴衆の面前で最初に王に祝辞を述べた。
タンサールの手紙では、spahbed-e-Spahbadanと、モーバッドの長、書 記の長、の3長官がいた。
(4世紀)
州は王領と寺社領に別れていた。それぞれ似たような政治 組織を持って いた。
王領の役人の管財人は オスターンダール。寺 社領の管 財人はマグパット。それぞれ徴税関係の役人として配下にハマールカールが町や村にいた。 また寺社領 の地区統括者はマグパット だったが、町の単位ではラッドが統括していた。これらの制度は4世紀には 成立しはじめていたと考えられる。また宗教界においては、この時代に東方のヘールバドに 対する モーバドの優位が決定的となり、全帝国を代表する大モーバッドに成長してゆく。国王(諸王の王)と同様にモーバダーン・モーバッ ド(司教中の司教)という 存在となってゆく。
シャープール2世は、後継者決定時に、書記と祭祀長とともに、アルダシールを指名した。後継者指名時の付き添いも、書記と祭祀の仕事の一つだった。
(5世紀)
ヤズダギルド1世の時代以降 ヴズルク-フラマンタール(大指揮官)が現れる。この任にあったのが、ミフル・ナルセスであり、彼の時代、宗教、軍 事、政治の3部門の 長と役所が整備され、官僚制組織が整ってきた。宗教 モバダーン モーバッド ゾロア スター教 会の 長。国王戴冠の役目をもっていた。
行政 ハザールバッド ヴズルク-フラマ ンダールと同 意。フ ラマンタールの下には、ダピールバット(dibirded)に統括される書記(補佐官達)シャ ヒルハマール カールに率いられ るハマールカールス、 徴税官の長ハルグバット(ハ ルグパットはササン朝初期からあった)などがいた。 フラマタール、ハマールカール、 ハルグパットはダルベンド など特別な地域にもいた。他にフートークシャバッド(工人の長)、ワストゥロヨーシャバッド(農耕 の長)などがいたとされ る。更に、ダランダルスパッド(官僚のトップまたは宮廷の トップ)がいたとされ、地方では、アンダルズバッド (地方の判事。シャープール 2世の兄弟、シャープール・サガーンシャーの碑文に出てくる(Tafazzoli P22))という役人がいたとされる。(6世紀)
ホスロー1世代、4州に分割され、それぞれ マルズバーンに 統治される(同時に、軍隊も4名のスパーフバッドに)。4州とは北(アパーフタール)、東(ホラーサーン)、南(ネームロー ズ)、西(フワルバラーン)。
この時代には、徴税の補佐官長(現米国Secretary=国務長官という訳でもいいかも)、祭祀長、ブズルク- フラマンタール(大 指揮官) 、及び戦士の長(artestaran salar)の4長官がいた。クテシフォンの知事に、dabirbad (書記の長)がいたとされる(Tafazzoli P22)。書記の活躍する場所は増加し、国王の秘密裏の調査や、国王逮捕時の取り 調べ官(例えばホス ロー2世の逮捕)なども書記から任命された。王の税制改革後、法廷の財務官(財務関係書記官)は、kadag-hamar- dibirと呼ばれるように なった。宝物庫の財務官は、ganj- hamar-dibirと呼ばれた。ホスロー改革後と考えられるが、地方行政制度も、「シャフレスターン(州)」という単位で認識さ れ、「シャフラブ」 「モグベド」「ドリョーシャーン・ジャーダグゴーグ・ウド・ダードヴァル」という行政官が中央から任命された。恐らく、それぞれ行 政・宗教・裁判担当だと 思われる。これらの長官は、書記階層が供給したか、或いは貴族階層から供給されたかは不明であるが、官吏は、書記層が担った可能性は ある。シャフレスター ンには、他にアーマールガル(財務官)などの職務も見えている。シャフレスターンの下には、更に郡、県レベルの行政区分があり、 Maguh(マグ局)とい う部局があったとされる。「社会」の項にて後述デフガーン(村長)は、これら地方行政の末端であったと思われる。デフガーン以上の、 行政官は、書記層以上 の階層が担当したと考えられる。
(7世紀)
王権は失墜し、国王は貴族の操り人形となった。
時代は不明だが、財務官に関して以下の資料がある。国王 関連の財 務官は、axwar-hamar-dibirといい、火の寺院の財務官は、ataxan-hamari-dibirといった。宗 教施設の財務官は、ruwanagan-hamar-dibirといった。郡レベルの財務官は、sahr-dibiriといった (出典 Sasanian Society: Warriors, Scribes, Dehqans (Ehsan Yarshater Distinguished Lectures in Iranian Studies, No. 1)Ahmad Tafazzuli (著)。更に、宗教寄 進官庁(ディーワーン・イー・キルダガーン)という官庁がMādayān ī Hazār ī dādestānに記載されているとのこと(ボイス「ゾロアスター教」講談社版p267)。
【軍事】なお、中国史書の「魏書」「周書」「北史」に見られる地卑勃(文書と衆務(「魏書」では地早、「北 史」では地卑))、遏羅河地(王の内務)、薩波勃(兵馬)、摸胡壜(司法、裁判)、泥忽汗(財政)との記載があり、それぞれ、 dabirbad(dibir)、axwar-hamar-dibir、スパーフバッド、モーバッド、デフカーンに相当すると思われる。
(構成)
軍隊(パフラヴィ語spah/パルティア語でispab/中世ペルシア語ispah/アヴェ スタ、及び古代ペルシア語でspada)は、戦士階級から構成されていた。(他にも軍隊をあらわす言葉として、karawanという言葉 があったが、次第 に軍事的意味をうしない、やがて、キャラバン隊を指すようになった。他にもzawarやaspなどという用語もあったとのこと) 戦士階 級は、2つに区分 され、騎士(aswar)と歩兵(payg/payadag)階層に分けられる。騎兵は、領地を経営 し、領地に多数の従者 と富と従えてい た。歩兵は、戦死階級だが、基本的に自作農である。軍隊の主力は完 全武装した騎兵であり、彼らを貴族と言っ ていいかもし れないが、騎士は騎士で、貴族達に敬意を払う必要があったというから、更に上位の貴族達がいたものと思われる。歩兵は農民から構成されて いたが基本的に輜 重兵だっ た。
ホスロー1世以前は、貴 族達は大貴族から小貴族まで彼ら自身と従者は自弁自装備の義 務があり、軍隊へ支払いなしに奉仕した。ホスローは貧乏貴族、良い騎士と呼ばれる階層に装備と、軍隊での給与を与えた。このように国王の常備軍が成立し、王は兵士の直接の支援を保持し、個人で軍隊を所有する大貴族 の力は激減した。本質的に新しい社会が養成され、 土地貴族と新貴族が生み 出された。これはデフカー ン(dehkan)層の繁栄の時代であり、彼らは村を所有する騎士だった。
タンサールの手紙によれば、軍は7つの階級に分かれ、必ず 下を通らないと上に上がれないようになっていた、とのことである。この制度はウマイヤ朝にも引き継がれた。
(高位の司令官とその管轄)
スパーフバッドはアケメネス朝時代からの役職で、「軍隊の長」を意味していた。 ササン朝時代に軍事大臣、あるいは最高司令官との意味になった。 最初は一人だけ置かれたが(ナルセスのパイクリ碑文に、エーラーン国スパーフバッドの 記載が登場している)、ホスロー1世時代に4つの州毎に置かれるようになり、スパーフバッドも、(アパーフタール・スパーフバッド)、東(ホラーサーン・スハーフ パッド)、南 (ネームローズ・スパーフバッド)、西(フワルバラーン・スパーフバッド)と呼ばれ、全てを統括する将軍は、Spahbedan spahbedと呼ばれるようになった(「将軍達の中の将軍」)。サ サン朝末期には軍隊は 中央集権化が完了したことから国境にしかおらず、アラブの進撃に、国境線をやぶられるとあっ さり首都まで進撃を許したのもこうした背景があった。
因みにホルズミド4世時代の将軍は星座になぞらえられていた。(アパーフタール・スパーフバッド=Haftoring(大熊座))、ホラーサーン・スパーフバッド)=Tisar(シリウス)、ネーム ローズ・スパーフバッド= Sadwes(フォーマルハウト)、フワルバラーン・スパーフバッド=Wanand(ヴェガ)、将軍の中の将軍は、北極 星になぞらえられた(ただし、北はゾロアスター教では冥界への入り口であるため、「Adurbayagan」という用語が、代わって 用いられた。
他にも「戦士の長」という称号が、5世紀、ミフルナルセスの子、カルダールの称号、artestaran salarとして、タバリーやプロコピウスの史書や史料Karnamagに見えている。タバリーのバフラーム・グールの章には、この地位 は、スハーフバッドよりも高く、城砦司令官(Argdeb)に相当したとの記載がある。ホスロー1世の軍制改革後も、 artestaran salarとSpahbedan spahbedは、そのまま残ったと思われる。ホスロー1世の軍制改革では、国防省ともいうべき diwan al - muqatalaができ、そのトップは、dibir(書記、補佐官)の管理下にあった。つまり、文民大臣の管轄ができ、シビリアンコ ントロール、というこ とになり、更に軍隊は、給料が支給される常備軍(100-4000ディルハム)となり、4ヶ月毎の監査や定期訓練など、制度が整備さ れた。
その他以下の司令官が史料に見られる。
-軍団長 gundsalar (史料 ホスロー2世時代)
-騎兵司令官 aswaran salar (史料 中世ペルシア語史料)
-歩兵司令官 paygan salar (史料 シリア語史料)
-要塞司令官 dizbed (史料 シャープール1世時代)
argbed (史料 アルダワーン時代。つまり、argbedは、ササン朝末期には、スパーフバッドを 超える王城司令官とでもいうべ き存在となっていた可能性がある)
統治者は臣下の全ての帝国判事であり護民官であり、権力の全てとともに統治者は他の全 ての人の ように法に服従しなくてはならなかった。貴族と聖職者の特権が打ち建てられ受け入れたため、支配者は彼らを尊敬し、彼らを保護しなくては ならなかった。こ のように君主の権力には制限が架され、臣下への義務を負っていた。(サーサーン朝末期の法律書「Mādayān ī Hazār ī dādestān」が残されている(英訳書もあるThe Book of a Thousand Judgements: (A Sasanian Law-Book) (Persian Heritage Series (Zurich, Switzerland), No 39) )
【徴税】
高官、書記、祭祀、戦 士、王の使用人は税金を免除されていた。
ホスロー1世は税制改革も実施した。これ以後、デフカーン(村長)が、徴税担当官を担うようになった。 税制改革は ディオクレチアヌスによる ユガティオ・カピタティオ(人頭税)についてのローマ人のindictio(15年紀ごとの徴 税)との類似性が数 名の学者 によって指摘されている。ホスローの税制改革の結果は支配者が彼の財源を毎年固定することを意味した。イラクの低地では、アケメネス朝時 代から、ササン朝 においては土地税を共有して支払ったが、人頭税と、カワード時代に開始し、ホスロー時代に完成した全国測量の結果、固定税となった。(詳 細は追加予定)
税収はアケメネス朝時代の12倍。607年6億ドラクマ(出典:タバリーのホスロー2世 の記載(こちらの 【2】)。
「大唐西域記」波斯の項に、「家ごとに税金を課し、銀4銭を取る」とある。
【人
口】
パルティア・サーサー
ン朝時代の人口推計
【GDP】
サーサーン朝時代末期
のGDP
【物価】
- 参考資料
Cambridge History of Iran Vol3-1
Sasanian Society: Warriors, Scribes, Dehqans (Ehsan Yarshater Distinguished Lectures in Iranian Studies, No. 1) (ペーパーバック) Ahmad Tafazzuli (著)