ローマ遺跡について

  ローマ遺跡には様々な遺跡が残っています。ローマ遺跡というとまず思い浮かべるのはローマにあるコロセウム(コロッセオ)だと思います。ローマにあるコロッセオは通称であって、正式名称は フラヴィウス劇場といいました。これは紀元80年に完成した時の皇帝、ヴェスパシアヌス帝の姓「フラヴィウス」に因んでいます。コロッセオもフラヴィウス劇場もローマの中心にあった円形闘技場のみを示す言葉で、一般にはアンフィテアトル(アンフィシアター、日本語では円形闘技場)とよびます。こうした円形闘技場はローマ帝国のあちこちにあって、遺跡も多く残っています。 例えば スペインのメリダ、イタリカ、タラゴナ、チュニジアのエルジェム、フランスのアルル、イタリアのポンペイ、クロアチアのプーラなど、ほぼ原型を留めた遺跡が各地に残っています。

 こうした円形闘技場遺跡は実は地中海世界の西方に偏っています。地中海東方はローマが進出する以前は ヘレニズム世界と呼ばれ、ギリシャ人の世界でした。 アレクサンドロス大王がアケメネス朝ペルシャ帝国を征服して後、地中海東方世界はギリシャ世界となっていました。 このギリシャ世界では 演劇が娯楽のメインとされていたのです。 円形闘技場はローマ人の娯楽習慣で、ギリシャ人は円形闘技場で催し物を見る習慣がありませんでした。ローマが東方へ進出した後、円形闘技場で闘技を見る習慣をローマ人は東方へ持ちこもうとしましたが、あまり東方世界には根付かなかったようです。こうして東方世界では円形闘技場の遺跡が少ない代わりに、ヘレニズム時代以来の演劇劇場遺跡が多数見られることになりました。 劇場遺跡は帝国全土に広がっています。例えば、 スペインのメリダ、フランスのオーランジュ、トルコのアスペンドスエフェソス、リビアのサプラタ、レプティス=マグナ、ヨルダンのボスラなどに原型を留めた遺跡が多く残されています。

 幾つか遺跡を訪問していて思ったのですが、劇場の特徴の一つは観客席の部分が山の斜面に作られているパターンが多いようです。これは建築工数が楽だということがまず上げられるとは思いますが、ヘレニズム時代以前の劇場が引き続き改修・拡張されつつローマ時代でも利用されたという事実を示しているのではないでしょうか。ヘレニズム以前の時代では 建築技法もローマ時代ほど発達しておらず、山の斜面など、自然の地形を利用できる部分は利用した方が工数的にも構造的にも楽で簡単だったからではないでしょうか。
 このように劇場は丘の斜面にあることが多いため、中には城壁の外に位置しているケースもよく見かけました。
 劇場に比べると、円形闘技場の方は、中には窪地に作ったものもありますが、平地に構築したものが多いように思えます。
 

 円形闘技場、劇場ときて、次ぎの娯楽施設はというと 戦車競技場です。映画「ベンハー」で有名な戦車競技は古代ローマでもっとも長く続き人気のあった娯楽の一つです。 ただし戦車競技場の遺跡はあまり残っていないのが現状です。残っていても円形闘技場や劇場と比べるとあまり保存状態が良くないのが一般的です。 座席の部分が残っている遺跡は殆どなく、競争路の跡が残る遺跡が殆どです。戦車競技場の遺構としてはトルコのアフロディシアス、ペルゲローマ、スペインのメリダなどがあります。

 浴場もローマ人にとっての大きな娯楽でした。記憶が確かではありませんが、ローマ人の一日の水の使用量は177リットル、江戸時代の日本人と同じくらい消費していたという話を聞いたことがあります。浴場は現代でいうところのスポーツクラブとサウナを合わせたような場所だったようです。運動場で汗をかき、冷水と温水につかって新陳代謝を活発にし、マッサージで筋肉をほぐして一日の疲れを癒し活力を取り戻す場所として活用されました。また同時に浴場は社交場でもありました。浴場の遺跡としては ローマのカラカラ浴場、ディオクレチアヌスの浴場、カルタゴのアントニヌス浴場、なと各地にありますが、原型を留めている遺跡は少ない様です。
 
 ローマ時代の浴場は温泉とは違います。温水プールはありましたが、これは温泉では無く、人為的に加熱して沸かしたお湯を使いました。サウナは床下に熱いお湯を循環させる施設で構築されていました。


床下温風送風層の遺構

 このように膨大な水は、近郊の山から水道を使ってふもとの町でともたらされていました。 地中海沿岸は ナイル川やチグリス・ユーフラテス川とは異なり、山がちな地形をしています。大河が無い為、水は川からひいてこなくてはなりませんでした。通常町や集落は川岸につくられますが、集落や町が面している川から 町に水をくみ上げるのは大変です。そこで ローマ人は川の上流から町へ水道をひくという方法をとりました。 これは逆にいうと、ローマ人にとっては 丘や山がある地形が町を作るためには必要だった ということになります。 ローマ帝国がヨーロッパの内陸部へおおきく広がったのはカエサルの時代であり、それまでは地中海の沿岸部分を支配下に置く形で領土を拡大してゆきました。地中海沿岸を旅していると、いかにもローマ人が好きそうだなぁ、と思える地形を多く目にします。それは 岩がちで木立が岩の間に点在しているような荒涼とした丘や山の景色です。もっとも当時はもっと木が賑やかで、古典古代時代にエネルギー資源として伐採されてしまったため、今のような半ば禿山のような状態になってしまったとのことです。

 ともあれローマの町は山や丘のふもとに作られ、水は水道によって町にひいてこられ、ローマ人の世界はこのような地形に沿って、地中海中に拡大したのでした。 水道の遺構もローマ遺跡の中で保存状態も良く、数ある遺跡の種類の一つです。スペインのメリダセゴヴィア、フランスのポン・デュ・ガール、イタリアのローマ近郊、チュニジアのカルタゴ郊外、トルコのイスタンブールなど各地に保存状態のよい遺構が残されています。
 

 


水道は町入って、細かい水道管(写真右上)で各アパート(インスラという)や広場の泉、浴場、公衆トイレなどにもたらされました。公衆トイレは 劇場や浴場など 公共施設の中や付属施設などに作られたようです。トイレは下の写真のようにベンチの角の前と上に孔があけられ、足元に水路があり、水が流れていました。孔から用をたし、足元の水で手を洗ったようです。また使用済みの水は下水道を通って川に流されました。ローマの町では下水道も完備されていました。

                     

 また貯水池も作られ、水道の水が蓄えられました。貯水池は水道の終点に作られた大規模な地下プールです。チュニジアのカルタゴ、トルコのシリフケ(写真右上)などに規模の大きな貯水池遺構があります。
 
 
 

 インスラというのは、主に下層民が住んだ安い共同アパートのことです。1階は裕福な人の住居や商店として利用され、2階以上がお金の無い庶民のアパートとして利用されました。現代では眺めのよい高層階の方が家賃も高いと決まっていますが、当時は階上まで水道を引くことは(技術的には可能ではあっても)、浴場や政府の施設でもない限り出来ませんでした。2階以上の階は水を運ぶのが大変だったので高層になる程家賃が安かったのです。また、高層階は不安定で崩れることもあり、木で作られている場合には、火事の被害が一番に及ぶ部分でした。ローマでは6階、7階という木で出来た高層のインスラが建てられ、それが火事の被害をより酷くしていたため、アウグストゥス帝は高層階を制限する法令を出さなくてはならなかったそうです。

 
  ところでローマ人の町の広場には泉があったと書きましたが、ローマ人の作った町には一つ特別は「フォルム」と呼ばれた広場がありました。フォルムは町の中心にあり、市場が立ったり、政治集会が行われたりと、人々が集まる中心でした。

  ローマ時代の町は古くから自然発生的に成立した町と計画的に建設された町とがありました。計画的に建設された町はほぼ正方形をしており、だいたい1辺が1、2キロ程度の規模のものが多かったようです。町を東西に横ぎる大通りをデクマヌス、南北の大通りをカルドといいました(海川に面する町では 水路に並行する通りをデクマヌスと呼んだとのこと)。町中の道は石で舗装されていましたが、郊外に延びる、町を町を結ぶ主要道路も舗装されていました。3m-5m程度の舗装道路が372本(4世紀初)、総全長8万6千キロメートルも延びていました。道路は基本的に軍用道路として建設されましたが、一定の間隔でマイルストーンや宿駅が置かれ一般旅行の旅行にも利用されました。

 

  町の外には通常墓地がありました。キリスト教が浸透するまでは火葬が主流で、レリーフで飾られた石棺に遺骨を納て地下に埋め、その上に石碑を建てました。





 更に町の郊外へ行くと、そこには裕福な市民の別荘(ウィラ)がありました。ローマ時代のヴィラとは最初は単なる別荘だったのですが、次第に周囲に大規模な農園を経営するようになり、家内制手工業も発達し、3世紀頃には町へ生産物を供給する産業の中心機能を担うようになりました。シチリアのピアッツァ・アルメリーナにあるカザーレの別荘などが保存状態もよく有名です。
 別荘などを横目で見ながら更に進むと川があり、そこには橋が架かっています。ローマの橋もまた原型を留める遺構の多いローマ建築の一つです。原型を留めているというだけではなく、今でも人や自動車が行き来する現役の橋として利用されている橋が各地に残されています。有名な遺跡としてはスペインのアルカンタラ、メリダ、コルドバ、サラマンカ、ローマのミルヴィウス橋、ファブリキウス橋、チェストス橋、アエリミウス橋、アエリウス橋、イタリアのリミニのティベリウス橋、トルコのシリフケの橋など現役の橋が多数存在します。





 日常的なローマの景観を色取る遺跡は大体以上のものになるかと思います。これ以外のローマ遺構としては、凱旋門、城壁、神殿、都市遺跡などになるかと思います。

 凱旋門も各地に原型を留める遺構が数多く残る遺跡です。 もっとも有名な凱旋門は ローマにあるコンスタンティヌス凱旋門とセウェルス凱旋門ではないかと思います。城壁は3世紀以降、蛮族の侵入が顕著になってから都市の防衛の為に増築、新築されたものが多いようです。ローマ市の城壁も270年頃に作られました。また教会(バシリカ)も ローマ時代の後半になって多く見られるようになった建築物です。このようにローマ世界は、2世紀頃までの景観と、3世紀以降の景観では 明らかに変化が見られます。
 
 

      





 この他に数は少ないのですが、図書館(トルコのエフェソス)、体育館(トルコのサルディスやギリシャのオリンピアなど)の遺跡や波止場の遺跡(カルタゴ)、トンネルの遺跡(イタリア・アオスタ近郊)などが現存し、ローマ建築の多様さには驚くばかりです。


ローマ遺跡ベスト10も考えてみました。まだ全部埋まっていませんが。。

 
戦車競技場 円形闘技場 劇場 水道 凱旋門 浴場 城壁 神殿、教会 別荘
アフロディシアス ローマ:コロッセウオ サプラタ カルタゴ メリダ コンスタンティヌス凱旋門(ローマ) ローマ:カラカラ浴場 ローマ バールベック ティボリ
ペルゲ エルジェム アスペンドス ポンデュガール ローマ5橋 セウェルス凱旋門(ローマ) ローマ:ディオクレチアヌス浴場 アオスタ ニーム スプリト
ローマ ヴェローナ メリダ ローマ アラカンタラ       パンテオン ピアッツァ=アルメリーナ
ティルス アルル レプティスマグナ カイサレア         トリア キプロス
  プーラ ボスラ セゴビア          
  ニーム オーランジュ メリダ          
  タラコナ エフェソス タラゴナ          
  イタリカ ヒエロポリス イスタンブール          
  メリダ イタリカ            
    シラクサ            
  BACK