1月1日

 昨日歩き回って疲れたこともあり、いつもより少し遅く起き、7時54分に出発。
しかし疲れが残っているのか、今日はミスをしてしまった。
正確には、ミスなのか、嵌められたのかどちらかよくわからないが、結果的にバス代を2重徴収されてしまったのだ。

 経緯は以下の通りである。
バスターミナルの窓口で長沙行きチケットを買おうとしたところ、近くにいたおしゃべり中の係りのおばさんが、長沙ならこっちのバスがある、と直接バスに案 内されてしまう。
まだ運転手は車掌はおらず、おばさんバスのドアを開けて、中で待っていろ、という。おばさんは私を置いてチケット売り場に戻ってしまう。

 とりあえず20分程待っていると、他の乗客や車掌らしき人がちらほら現れだす。
7時半頃になると、乗客も増え、ドライバーもやってきて、出発しそうな雰囲気となり、車掌がチケットを確認し始めたので、この時チケットを購入した。
95元。
領収書を出してもらったが、行き先や日程の入っていない、唯の領収書の紙。
これでOKだと思い、45分頃トイレにいって戻ってくると、バスはエンジンをかけて発車寸前。
最初に登場したおばさんが、乗客リストをもって、私からチケット代を徴収しようとしている。
支払ったと、領収書を出しておばさんに見せたのだが、うまく伝わらない。
筆談してきちんと確認すればよかったのだが、なぜかこの時車掌はどこかに行ってしまっていなかった。
おばさんが出してきた領収書を見るたところ、4,50元だと誤解してしまい、税金か差額か設備費かなにかなのだろう、とうっかり払ってしまったのだった。
思わず支払ってしまったのには一応理由もあって、長沙まで397km。この距離で95元は少し安すぎる。
合肥から武漢間430kmが177元というのは少し高すぎるとはいえ、400kmではだいたいこれまでのところ130元程度。
95元に4,50元の差額を払って135元となるのだから、こちらの額の方が妥当だ、と瞬時に思い込み、思わず100元札を出してしまったのだ。
つり銭戻ってきたのは5元だけ?あれ?と思い確認すると、おばさんが出した領収書は2枚重ねとなっていた。
おばさんはバスを下り、どこかに行ってしまっている。
追いかけて取り替えそうにも、車掌がいないことにはどうしようもない。

ということで、180元支払ってしまったのだった。
2,3分後、車掌が戻ってきてバスは発車。嵌められた可能性に思い至ったのはこの時。
丁度入れ替わりにバスの車掌と乗客名簿チェックのおばさんが登場したのは、言葉に不自由な外国人から最初から2重徴収をすることが目的なのではなかったの だろうか。
そもそも窓口でチケットを買わずにバスで待機させることがおかしい。
などと考えてしまったのだが、とはいえこれも、誤解が続いただけといえないこともない。
おばさんは窓口で私がチケットを買ったのだと思い込んでいた可能性もあり、
最後に乗客リスト(乗車券番号と行き先一覧)と実際に乗っている乗客を照合してチェックするとき、
私の分がなかったのでその場で徴収しただけなのかも知れない。
それにしても95元は1500円程の金額なので、意味なく無駄に使うには安い額ではない。
うっかりミスを腹立たしく何度も振り替えつつの長沙までの道中となった。

上海から南京、合肥、武漢、荊州の間の景色は、だいたい似通っていて、雑木林、池、荒地、田畑があり、その間にちらほら農村の民家がある、というもの。
民家も、清朝時代からあるような日干し煉瓦つくりの、一見土蔵のようなものではなく、比較的最近立てられた、三階建ての立派な家が点在している、というも の。
しかし、荊州から長沙間は、少しだけ変わり、民家と田畑が展開しているのはそのままなのだが、丘が増え、台地を走っている感じ。
この区間は前半300kmくらいは高速道路がまだ建設中で、一般国道の、殆ど起伏がない一直線の道路を走るのだが、渋滞もなく、時速60kmくらいで快調 に走る。
9時12分南平、10時25分澧県、12時20分常徳通過。
常徳では、市街に入らず、そのまま郊外から高速道路に乗ってしまった。
市街に寄るかと思っていたので、こんなことなら常徳行きチケットにしてもよかった。
高速道路が無いとはいえ、思いのほか移動しやすい区間でもあったし、2重徴収にもあわなかっただろう。
とはいえ後の祭り。

 13時28分、益陽に入ったところで、バスはいきなり終了してしまった。
どうも、ここから先へ行く乗客が少ないのか、あるいは何かトラブルが発生したので、運行を取りやめてしまった模様。
乗客はたった4名しか残っていないことから、その先の運行を取りやめたもかも知れないが、
バスは長沙-荊州往復なのだから、乗客がいなくても、とりあえず長沙に行かないと、
長沙出発の客を乗せられないことと、われわれ4名を降ろした後、
バスはバスターミナルに設置されている検査場に行ったので、何かトラブルがあったのかも知れない。
残った4人の乗客はバイタクに乗せられ、益陽市街中心部を横断し、もう一方のバスターミナルに移動。
そこでタクシーの運転手が、長沙行きと寧糸行きバスと交渉し、料金を支払い、3名が長沙行き、1名が寧糸行きに乗ることになった。
15時過ぎ、長沙の汽車西站に到着。

たまたまこの日だけだったのかも知れないが、長沙西站は、非常に強い風が吹いていて、
気温はそれ程低いとは思えないが、体感温度は非常に寒く感じた。
これは凄いところに来たな、というのが最初の印象。
益陽から長沙間の社内TVによると、最高気温が26度、最低気温は8度とあった。
取り合えず食事をしたかったが、手ごろな店が見つからないので地図だけ購入して位置を把握。
ここは湘江の西側にある西バスターミナル。
ガイドブックによると、馬王堆遺跡は、市街の東8km付近にあるとのことなので、とりあえず東バスターミナルに移動することにする。
しかし、長沙の市街マップは、市バスの路線が非常にわかりにくかった。
1本でいけるバスは必ずありそうなものだが、どうにもよくわからないので、とりあえず湘江をわたって、
中心街を東に向かうバスに乗り込むが、河の手前の市バスバスターミナルで終点となってしまい、ここで更に中央駅行きの12番バスに乗り換える。

強風のおかげで、雲が飛んで青空が見えている。久しぶりの青い空。気分いい。
湘江をわたる橋から、対岸の長沙市街ビルが、高い青空の下、午後の陽光に照り映えてよい景色。
しかしバスは大渋滞でなかなか進まない。
写真取りたかったが、小刻みに走っては停車を繰り返すのでタイミングがつかめない。
湘江は、前回桂林の霊渠に行った時初めて知った河だったが、これほど上流で、川幅が1km近くもある川があるとは知らなかった。
しかもこの河は長江の支流。中国は広いと改めて思う。

         
 翌日昼の 湘江をわたる橋。渋滞はなくなったが、前日よりも曇り気味。ビルも霞んで見える。

 大渋滞と社内大混雑の中、中央通りをのろのろ進み、やっとのことで列車の中央駅(火車站)到着すると既に時刻は16時。
こりゃ都市化が進み、人と車の数が飛躍的に増えた結果、飽和状態となっているのだろう、
地下鉄などのインフラ整備が追いついていないんだな、と最初は思ったものの、どうやらこのような極端な渋滞は、
本日が元旦だったからのようで、翌日はかなり透いていた。
12番のバスで、火車站に移動し、全員下車した後、清掃員が乗車口にたまったゴミを清掃していたが、もの凄い量。
社内はゴミ箱状態。いやこれは酷い。
しかしこれも考えてみれば、元旦特有の現象だったようにも思える。
宿を探しつつその辺の飲食店で、遅い昼食。バスに乗っていて体が冷えてしまったので、牛肉ソバ。

 駅の北側、東バスターミナル方面の道路沿いに宿がたくさんあり、今日は88元の賓館にする。
昨日の反省もあってか、一応中を見てからにしたのだが、まぁまぁ。通り沿いなので少し煩いくらい。
休憩後、市内観光に出る。17時半。
駅まで戻り、12番のバスに乗り、先ほど見つけておいた招商銀行前で下車し、1000元下ろす。
その後、繁華街を散歩しつつ、地図で見つけた賈誼故居を探す。
賈誼は、豪族や官吏の縁戚でもないのに、周囲に才能が知れ渡ることで、官吏として採用された前漢文帝時代の有能な官吏。
彼はわずか32歳で死去したが、「新書」という書籍を著し、秦滅亡を分析した部分が、後代、「過秦論」と言う名称で有名になった人。
30分程で到着したが見学時間は17時頃までで、既に真っ暗になっていた。
遺跡は残っていないようだから、とりあえず来ました、ということで、門構えだけ撮影。
この賈誼故居のある通り(太平街)は、幅5m程の歩行者専用の狭い通りだが、観光用に通り両側が、
木目調の看板や窓、柱などで統一されたデザインとなっていた。飛騨高山などの観光街を思い浮かべていただければ、それに近いといえる。

                  

まだ整備中で、半分くらいの店がオープン、半分くらいはまだ整備中だった。
翌日お昼頃にもう一度来ることになるのだが、そのとき盛大にオープン式を挙げている店があった。
この後、中心の歩行者天国街を散歩。広州の北京街や、新宿通りのような繁華街。南北1km程続いていた。

                 

繁華街の最後の方で、動漫とあるショッピングセンターのようなところに入ってみた。
最近遠藤誉氏が、日経オンラインに中国アニメ事情をレポートしているが、
これまで町を歩いていてレポートにあるほど過剰にアニメに沸いている印象はなかったので、アニメ関連の動きを見てみるには丁度いい機会。
ここはキャラクターグッズを扱った小さい店舗が無数に入っているところだった。
東京中野駅商店街にある中野ブロードウェイのような雰囲気。
とはいえ、中野ほど徹底しているわけではなく、いかがわしさは殆どない。
ポピュラーなアニメのキャラクターグッズやフィギュアが並べてあるだけ。
鉄腕アトムの店(「AstroBoy」というお店。一応看板のところに、(R)マークが記載されていた)があったが、このようなキャラに特化した店は殆ど 見当たらなかった。
数は多いけど質はまだまだ、という感じ。

 ひとおおり歩行者天国を見て歩いたので、夕食にする。
西湖路と人民路の間の、一般居住区街と思われるところを通って戻ったのだが、こうした庶民街路にも、洒落た店がいくつもあり、都市としての成熟度を感じ る。
解放西路近くの定食屋よりワンランランク上の低級レストランで夕食。
20時15分頃から1時間夕食。今までゴキブリを見ることはあったが、この店では、たぶん生まれてはじめて飲食店でねずみを見た。
フロアをさーっと横切って、調理場の方(の壁)に消えていった。
一応元旦ということで、量に関係なく、何種類か注文。
51元になってしまうが、まぁいいや。
帰り、バスで戻ろうして、とんでもない方向に行くバスに乗ってしまう。
といっても大した距離ではないが、40分程乗って着いたところは南郊公園(市街区の南を走る外環道、「南環」と湘江がぶつかる角にある公園)の市バス停留 所。
寂しいところで、戻りのバスも見つからず、丁度タクシーで帰宅してきた人がいたので、そのタクシーに乗り込んで駅まで戻る。

                                  
                                                      長沙駅

途中ウォルマートを見かける。
22時半、宿に戻る。昨夜つくろったズボンの付け根がまた切れたので、再度修復。24時30分就寝。

1月2日

7時22分起床。52分頃出発。
最初の目的地は馬王堆墓遺跡。
長沙=馬王堆といっていいほど有名なのに、地図では場所がわかりにくく、
裏にある郊外地図や、表の詳細街路図を何度も見返し、夕食時にやっと場所を見つける。
ガイドブックには、市街東方8kmの五里牌村にあると記載がある。
しかし、この「市街」がどこを基点としているのかよくわからない。
地図表の詳細街路図は、20km四方を掲載していて、市中心部を基点とするなら、この地図内に記載が無いとおかしい。
しかも地図裏面にある長沙市全体地図では、京珠高速公路と三一大通と万家麗路に挟まれた地帯に、
馬王堆墓遺跡がマークされているにもかかわらず、地図表の詳細市街図上のその付近には特に何も記載が無い。
ところが、驚いたことに、宿に帰る時に、宿近くのバス停の名前を確認したら、「五里牌村」となっていた。
ガイドブックの記載が正しいとすると、この近くにあるはずである。
以前は村だったのかも知れないが、今は市街地区の拡大飲み込まれ、村は名称をとどめるだけとなっているのだろう。
そうしてよくよく見てみると、「馬王堆療養院」という病院名が、5ミリくらいのサイズの文字で記載されているのだが、
その直ぐ下に1mm程の大きさで、「馬王堆墓」と書かれていた。
病院の注釈か近所の公共施設(消化栓とか)くらいにしか思っていなかったので、見落としていたのだ。
有名な遺跡なんだから、赤字にするとか、もっとわかりやすくして欲しいものである。

 ということで、馬王堆墓遺跡発見。宿から直線距離で二kmもない。
とりあえず五里牌バス停から126番バスで運大一路を東へ3つ先の馬王堆バス停で下車。
そこから1km弱、北へ向かうと、程なく馬王堆療養院到着。
なんと、馬王堆療養院前にはバス停があり、112、122、501、912、701路のバスが通っていた。
バス路線地図のはずなのに、地図にはこの付近には912号の記載があるだけで、しかも地図上の路線は馬王堆療養院の前は通過していない。
まぁ、一枚の地図にここまで詳細な街路と路線図を完全に記入するには、長沙市は大きくなりすぎてしまった、ということなのだろうが、それにしても細かいと ころが甘い。
私は地図には煩い方なのだ。
しかし、一方で、漢字文化圏に生まれてよかった、と思う。
本屋にでも行けば立派な英語の地図があるのかも知れないが、特に勉強することもなく、
町の売店で気楽に手に入る安い市街地図でさくさく歩き回れるというのは、非漢字圏の外国人に比べれば、日本人にとっては便利この上ない。

 病院入り口に交番があり、その前に「馬王堆墓遺跡はこちら50m先」という小さい看板が立っている。

                        

どうやら遺跡は馬王堆療養院の敷地内となっているようだ。
50m程進むと、今度は、磨かれた黒い石に、「馬王堆墓この先50m」という案内碑が設置されている。

                  


見ると、その背後に鬱蒼とした森林に覆われた、古墳のような丘があり、横穴式トンネル入り口が2つ見えている。
なる程〜こういうところでしたか。トンネル左の階段を上がっていくと、馬王堆墓チケット売り場と書かれたプレハブ小屋がある。
入場時間は、夏8時半-16時、冬9時から16時半となっていた。
日本の感覚では、夏時間は早くて遅い、冬時間は遅く始まって早く終わる、という感じだが、ここはそうではないらしい。
まぁ、あまり人も来そうもない施設だから長々と空けていても無駄ということなのかも知れないが。

8時10分頃ついてしまったので、しばらくその辺の店で朝食でも取りながら時間を潰す。
朝食ソバ4元。9時40分頃、古墳の頂上まで上ってみる。
市街地面から高さ15m程。頂上は、直径10m程の平地となっていて、ベンチが置かれていたが、周囲は森林に覆われ、見晴らしは悪い。
古墳の基盤部分の直径は、50m程だろうか。結構斜面は急で、円錐に近い感じ。
下の写真が、発掘当時の馬王堆。周囲に殆ど建物がなく、見通しがよく、古墳の輪郭もよくわかるところだったようだが、今は市街の様々な建築物に囲まれ、 ちょっと見には、全体像はよくわからなくなってしまっている。

                     

9時45分、管理人のおばさんが2人くらい来て、参道部分や館内の清掃をしている。
まだ開館前だったが、入れてくれた。2元。
館内は、保存状態のよい遺体で有名な辛追の息子が埋められていた三号墓が展示されていた。
辛追とその夫は、1号、2号墓となっていて、こちらは公開されていなかった。
3号墓だけが、発掘された時のままの状態で公開されている。1号2号は埋め戻されているようで、
最初に見た横穴から玄室にアクセスするようになっているのかも知れない。
展示されているのは発掘された墓室だけなので、直ぐ見終わる。

122番バスで人民中路まで出て、そこで131番バスに乗り換え。
9時半頃、湖南省博物館に到着。地図では、博物館前は、131番バスしかないように見えるが、
実際には10本ものバス(113、112、131、136、302、303、146、150、901、904)が運行しており、特に112番バスは、馬王 堆療養院前への直通バスだった。
しかも有名なランドマークのはずの湖南省博物館が地図に記載されていないのだった。
やはりこの地図はいまいち。どうも地図は、町によっては、複数社から発行されているようなので、
もしかしたか他にもよりよい地図があるのかも知れないが、この地図はいまいちだった。
とはいえ最終的には用を成したのだし、賈誼故居など、これで知ったのだから、十分役に立ったといえるわけだけど。

湖南省博物館は、メインの馬王堆墓の遺物、及び省内各地で発掘された歴史的遺物の青銅器コーナーと陶器コーナー、
明清代の書道部門、特設展示会場(当日は、紫禁城の御物展示会)などから構成されていた。
一般展示50元、特設展示+10元。ここは、フラッシュをたかなければ撮影OKとのことがありがたかった。
観客はばしばし撮影していた。

展示物についてはこちら(馬王堆墓遺物商代遺物)。

11時20分頃見終わり、売店で湖南省博物館のDVDと、は馬王堆墓のVCDを購入。18元と15元。
途中で168番バスに乗り換えて東バスターミナルに向かったが、バスは直行しないで、
市街南郊外を大きく迂回し、東バスターミナルの更に東側にある隆平高科技園という新興開発区を回って、
東側から東バスターミナルに着いた。40分くらいかかってしまったが、外観だけとはいえ郊外の様子を見ることができた。
南昌行きチケットは、14時半。138.5元。
2時間半あるので、湘江と賈誼故居を見に行くことにする。
バス127番と117番バスを乗り継いで、湘江西岸のバス停へ。
徒歩で橋を渡る。今日は曇り気味。昨日は、空気が澄み渡り、河が水平線まで見えたが、昨日程良い眺めとはならなかった。
橋は、丁度真ん中にある中州を通過していて、河は、歩幅でいうと、中洲までが552歩、中洲から東が、
1200歩程、川幅部分だけで、恐らく1kmほどあるのではないかと思われる。

続いて太平街に入り、露店で餃子を買い、食べつつ賈誼故居へ。
1時半頃到着。10元。現在の建築物は民国時代のものようで、4つほどの建物が奥に向かって並んでいるつくり。
井戸だけは、一応賈誼の頃のものとされているらしい。
内部に来歴を記載した説明版があり、それによると、井戸は、酈道元が水経注で紹介したのが、最初らしい。
この時点で賈誼が没してから既に500年程経過しているので、あやしいといえなくもないが、これ以降は、ほぼ完全に来歴が残っていて、歴代の改修などが、 史書をはじめさまざまな資料に掲載されていて、それが恐らく全て、この説明版に掲載されていた。賈誼故居については東晋時代の「湘洲記」という書物や、前 漢時代の碑文にも言及されているとのこと。で、その井戸は、井戸というよりもトイレに見えなくもない。

時間が無くなってきてしまったので、急いで五一大道に出てバスで火車站近くへ出るが、
いよいよ時間が無くなってしまい、ここでタクシー拾って汽車東站へ。
14時15分頃到着。急いでトイレいって、パンを買ってバスに飛び込む。

17時18分-45分、南昌まで100km程の地点で、運転手が夕食を食べる為にドライブインに入る。
どうやら、2時間ごととか、中間地点で休憩する、というわけではなく、運転手達の都合で休憩が決められているようだ。
乗客は、数名が食事をとっていたものの、殆どの客は手持ち無沙汰にうろうろしているだけだった。
丁度日没になり、地平線に沈みこむ夕陽が見えた。

                                          

今回驚いたのは、高速道路で運転中に、運転手と車掌が運転を交代したことである。
このモラルはいくらなんでも、と思ったが、速度も落としていたようだし、危険な感じはしなかったからいいんだけど。いや、よくないか。

長沙-南昌間は、全線高速道路である為、ほぼ時速100kmで走ったようで、約430kmの距離を、4時間程度で走った計算になる。
華南のあたりは、相当正確に時間が読めるようになっているようだ。長距離旅行はかなり便利となった。

19時過ぎに南昌着。
この町も、贛江という大河沿いにあり、旧市街は、長沙同様、河の東側に広がっている。
西から入って橋を渡っている時に、東岸のビル街が見えるのだが、この辺りの景色は、長沙と見間違えるほど、良く似ている。
バスを下りるといきなり客引きのおばさんに捕まる。
標準間40元。あまりに安いので断ったのだが、なかなかしつこく、持っている価格表には60元の部屋もあるようだったので、一応見に行く。
さっさと見て、駄目そうだったら断ろうという心つもりだったのだが、なんと10分程の距離があり、宿が近づくころには断れない雰囲気になってきてしまって いた。
しかも真っ暗な路地に入ってゆく。相当古く、廃墟のようなところ。思わず翌朝撮影してしまった。

この手の古く、低所得階層が住んでいるアパートの内部は、概観程酷くは無いこともあるし、
今回も、概観から想像もつかないほどとは言わないが、内部は、そう酷いわけでもなく、40元なら妥当な範囲でもあったので、ここにする。

                                                    
                                        宿のあるアパート                             宿の階段

ここは、一般的な住宅を改造して宿にしている点は、武漢で宿泊した所と同じだが、
大きく異なる点がある。武漢の宿は、もともとの部屋の扉を差し替え、トイレを増設するという方法で、
部屋割自体は、もともとの住宅だった頃のレイアウトを変えずに利用しているようだったのに対して、
こちらは、部屋の天井を見ていると、もとは大きな部屋を区切ったことがよくわかる。
学園祭の模擬店みたいなつくり。
エアコンはなく、(全然寒くも無いので、エアコンは必要なかったが)天井につるされている巨大な扇風機(20世紀初頭の植民地でよく見られたようなやつ) を見ると、
刃が壁にぶつかるらしく、その部分だけ、縦10cm、横1m程壁をくりぬいて廊下とつながっていた。
更には、トイレの明かりのスイッチは、TVの上にあるのだが、この部屋のスイッチは、この部屋本来の場所、つまり、扉の外の廊下の反対側についていた。
スイッチがドアの外にあるパターンに出くわしたことはあるが、廊下の反対側にあるパターンは初めてだ。

一息ついてから散歩がてら夕食に出る。手ごろそうなレストランに入る。
ガイドブックや地図を見てみるに、あまり興味のある史跡はなさそう。
もともと9日工程で考えていた旅行なので、ここまで来てまだ1月2日。
あと4日あり、かなり余裕が出てきている。
先を急ぐこともないので、江西省博物館へは行ってもいいかもとは思ったものの、結局行かないことにして、繁華街を今日中に歩いてしまうことに決める。

食事後、中山路まで出て、中山路を西に象山北路まで歩いて、象山北路を北上、叠山路まで出て、
このあたりから5番と11番のバスに乗って宿に戻ってきた。
中山路と叠山路のあたりが一番の繁華街とあったが、中山路に比べると、叠山路は夜はもう店じまいという感じ。
中山路は、デパートや商店がにぎわいを見せていたが、長沙や合肥と比べると、まだ地方の田舎町という印象。
南昌は省都ではあっても、湖北省で言えば荊洲相当の発展度という感じがした。
20時半頃から1時間程散歩して、21時半頃宿に戻る。
バスは珍しくコインと紙幣を入れるところが分かれているバス。途中ウォルマートを見かけた。



1月3日

7時10分起床、30分出発。
45分チケット購入。8時20分発。12時58分贛州着。
途中の景色は、小高い山が増えてきたものの、日本の風景とほとんど変わらないような単調な景色が続く。
山といっても、おそらく標高1000m程度で、丘の延長線上にあるようなもの。
道は殆ど直線で、起伏もほとんどないため、国道で移動したとしても、蛇行する坂道など殆どなく、直線的な移動が出来そうな地形である。

 最初に見えてきた贛州市街は、大量の建設中のマンション群。
竣工していて、無人のマンションもかなりあり、過剰な不動産投資の影響がこんな田舎町でも見られるようになっている。
誰がこんなところに住むのだろうか?
これらマンション群が近い将来埋まる程、このあたりでは、産業構造の都市化が進んでいるのだろうか?

 贛州到着後、定南行きチケット購入(45元)し、地図購入。
昼食を取りながら発車までの間に見れそうなところはないかと史跡を探す。
贛州は、章江と貢江という川が合流して贛江となる地点にある。
旧市街は、馬の首を横から見たシルエットのような地形をしてる。
上が北に相当する。馬の顔の輪郭に部分に相当する川が、章江、背中の首筋から頭の輪郭部分が、
貢江となっていて、丁度馬の耳に相当する部分で合流し、北へ向かって流れている。
この馬の耳の部分に、宋代の城壁が現存している。
城壁までは2,3kmの距離だと思われるが、既に定南のチケットを買ってしまったことと、肇慶で宋代城郭を見ていることもあって、見に行かなかった。
地図を見る限りでは、博物館も見当たらない。
贛洲近郊には、客家の円形家屋があるらしく、バスターミナル(贛州汽車站)近くに、五龍客家風情園というテーマパークがあった。
地図の裏面に掲載されている主な観光資源には、南部龍南県に龍南客家園屋と呼ばれる、客家の円形住宅地がある。
他に、贛州旧市街には、蒋経国の旧宅が宋代城址近くにある。
郁孤台、いくつかの寺、慈雲党、文廟などが主な観光資源のようである。
一応簡単な情報が集まったので、江西省と広東省省境にある定南県へ移動する。
当初予定では、9日工程で、1月6日戻りのはずが、既に、1月4日に戻ってこれそうなくらい日程が前倒しとなってきているので、
もう少し贛州旧市街を見学してから、遅い時間でも十分移動可能だと思ったものの、
昨年購入した2006年1月出版の全土交通地図では、贛州から先は高速道路がまだ建設中となっていたこともあり、念のため早めに移動することにした。
ところが、高速道路は完成していて、既に深圳までつながっていた。
お陰で100km程南の定南には17時頃に到着してしまう。
それでも3時間近くかかったのは、高速道路に乗るまでにしばらく国道を走り、事故渋滞に遭遇したからに他ならない。
贛州を見学してから、16時頃のバスでも19時到着となったのだから、少し気が急きすぎたといえなくも無い。
贛州を越えると、どことなく植生が南国風になり、椰子の木などが目に付き始め、下り坂が多くなってきたように思う。
長江方面と、南シナ海方面への分水嶺を越えたのかも知れない。

定南は、市バスが無いほどの小さな町。
宿も、これまで泊まったことのない「大酒店」クラスにしてみる。
このクラスのホテルでも80元の部屋があった。田舎は安い。
この宿は、見た目新目で、実際部屋も日本のホテル並み。
受付の娘は英語も少しは分かるようで、こんな田舎の町に、そんなに外国人が来るのだろうかと少し疑問に思いはしたが、
散歩してみると、町の規模に比べ、宿の数が多いのが意外。
こんなに人の移動があるのだろうか。下は宿泊した宿。宿の前に池があり、周囲をジョギングしたり散歩したりしている人がいた。

            

この町はさすがに地図は無かったが、贛州地図の裏面に、贛州地区内の各県の中心部の地図が、それぞれ小さく掲載されていて、定南の案内はこれで事足りた。
1時間程散歩して中心のロータリーから放射状に伸びている4本の繁華街はだいたい歩けてしまう。
KTV店が2店あり、新華書店があったので、江西省旅行ガイドを立ち読みする。
このガイドブックにも、江西省には、あまり古代遺跡はなさそう。
とはいえ、博物館ではより詳細な情報が得られるはずなので、江西省博物館へは行って置けばよかったと思う。

南昌料理という露店に近い定食屋で餃子、スープ、焼きソバなどを食べて19時50分宿に戻る。

今日南昌から贛州への移動の間に、Mビーンの新作映画を、贛州から定南の間ではジャッキーチェーンの「シティーハンター」を見た。
Mビーンの作品は、これまで一部の場面しか見たことがなく、可笑しいというよりは、
主人公の言動にいらいらさせられる印象があり、あまり見たいと思っていなかったのだが、
今回のカンヌ編は、混乱の果てにうまくまとめられた大団円があり、それなりに感動させられた。
ただの無味乾燥なドタバタだと思っていたが、少なくとも今回の新作は悪くはなかった。
ジャッキーチェーンの映画もちゃんと見たことは殆どなく、原作の主人公とはイメージが違うよなぁ、と思いつつ見始めたのだが、
全体的には作品のイメージがよく出ているように思えた。
そういえば、シティハンターを読んだのはブルガリア滞在時だった、などと思い出す。
青年海外協力隊のソフィアオフィスに、誰かが預けたコミックがあり、それを読んだのだった。



1月4日

7時半起床。50分出発。
行き先案内掲示板には、河源がなかったので、取り合えず和平行きを購入(16元)。
ところが、30分頃、河源行きと書いてあるバスが出発してるではないの。
和平行きバスは40分頃出発した。
今回は高速は使わずに、地元の村を縫って走るコース。
一応本格的な山間部に差し掛かってきたとはいえ、それでもそれ程険しい山地とはいえず、関東平野の周辺部を走っている程度な感じ。
近距離での乗り降りが激しく、10分程前に出発した河源行きバスに追いついてしまう。
道路沿いに現れる乗客をピックアップする毎に、毎回追いつ抜かれつ、結局ほぼ同じ頃に和平についてしまう。
和平でバスを下りると、目の前に道中並行して走っていた河源行きバスが。
車掌に乗せてくれと頼み、そのまま乗り込む。ラッキー。
9時50分和平着。ここから河源までは高速道路だが、周囲の景色は、それまでとあまり変わらない感じ。
河源直前になって、山地が開けて、突然なだらかな地形が開けた。
11時42分 河源着。早速地図を購入して、お昼を食べながら情報収集。
どうやら、亀峰塔という古塔があり、その横に河源博物館がある。ここに行くことに決める。

 河源も、贛州のように面白い地形。
旧市街は真空管のような形をしていて、真空管のフィラメントにあたる部分に堀がある。
コップを伏せたような形で、西、北、東に掘割がある。
真空管の東側は、東江という川となっていて、西側から北にかけて、新豊江黄金水道という運河が流れていて、
真空管の頭を形づくったところで、東側の東江に流れ込み、そのまま南へ向かって流れている。
汽車站(バスターミナル)は、堀の西側にあり、ここから1番バスで1駅、堀の西側の縁の部分へ移動し、下車して東側の掘まで見て歩く。
東側の堀の先から10番バスに乗って10分。河源博物館停留所で下車。
直ぐ横の丘の上に塔があるので、場所は簡単に把握できる。

 この博物館は小さいわりには当たり。
この近辺では、恐竜の化石がたくさん発見されているようで、特に館の1階はほぼ恐竜関連の展示。
特に卵の化石は、まだ未整理なのか、多数のケースにつめられて重ね置きされ、全体では、奥行き三m、高さ2m、幅5m分程のスペースをケースが占めてい た。
1階の一部と2階が、歴史的遺物で、秦代からの遺物が多く展示されていた。
漢代の瓦や家の模型の遺物などが展示されていた。
発掘された古銭の数を見ると、前漢2枚、後漢1枚だが、唐代になると、貨幣量が増えだし、宋代になると出土量が一気に桁違いとなっていた。

付近の史跡情報も掲示されていて、めぼしいものとしては以下のものがあった。

・文天祥の長女の墓
  北西部の連平県大湖鎮 1276年
・越王の井戸
  龍川県 佗城鎮中山郷 南越王趙佗の時代の創建。1758年修復。
・新龍村 漢墓群  連平県元善チン
・龍川県陀城に坑子里遺跡、正相塔、龍川故城遺跡(新石器から戦国時代)
・和平県 芦老屋、和平鎮など、和平県北部に多数の漢代遺跡
・趙佗故城遺跡 東源県双江鎮の手頚筋山上に井戸と馬房、神殿跡が残る
・逍遥岩磨崖石刻 宋代 源城鎮南効東辺

博物館のあと、塔を見に行く。
来歴を読むと、創建は1132年。外側6角、外側7層、内側13層で、42.6mあり、1987年に改修されている。

亀峰塔は登ってみることは出来ないので、外から見て終わり。
10番と1番バスを乗り継いで汽車站に戻る。
13時56分恵州行き。35元。15時30分、恵州着。地図を購入。
広げてみると、西湖という湖で売っている町だということがわかる。
池の西側にランドマークとなる塔があり、宋代の墓があり蘇東坡記念館などがある。
このあたりをざっと見ることにする。
まずはバスで東大門まで行き、ここから池を横断することにする。
ところが池は、観光地として設備建築中で、この南北を分ける西新橋という堤橋を境に、北側の池は、水が完全に抜かれ、橋や護岸施設などが建設されていた。

               

現在は切り離されているが、もとは川の一部だったのだろう。
水深は2mもないような池だった。塔と蘇東坡記念館、それぞれ入場料5元。
複数の施設の共通割引券もあるようだったが、この2つしかいくつもりはなかったので、個別にチケット購入。
塔に登ってみたが、高所恐怖症症状が出てきて、途中で断念。
内部は恐らく13層ほどあるのではないだろうか(後で確認したところ13層)。
10層まで登ったところで、怖くてそれ以上上がれなくなってしまった。
10層あたりで塔の直径が2,3メートル程度しかない。
鉄格子もあるので、飛び降りようにも出きないし、他の客は頂上まで登っているので安全性に問題が無いことは間違いないのだが、にも関わらず、登れなかっ た。
きっと、壁に体当たりとかして、ちっとやそっとじゃどうにもならない、ということが確認できたら安心できたのだろうが、
壁に体当たりしたら、そのまま壁に穴があいて空中に放り出されるのではないか、という信頼性に関する恐怖心がどうにもぬぐえなくなってしまった。
というか壁に体当たりすたい、という衝動が抑えられがたくなってきてしまったのだった。
従来から高い所は苦手だったが、最後まで登れなかったのは初めてのことである。
10層目も13層目も景色はあまり変わらない筈だから、諦めも早かった。
塔の概観は、なんとはなしに唐代建築といった風情だったので、唐代創建はほんとだろう、と思ってしまったのだが、
この後、本日最後に見に行ったもうひとつの塔も、似た様な形をしていたが、
こちらは清末の建設となっていたので、宝塔についても、本当に唐代かどうかは、心もとなくなってしまった。

 塔を出たところで16時30分。
続いて宋代の王朝雲という人の墓を見に行く。
ここは蘇東坡記念館の敷地内にある。
王朝雲という人がどういう人だかまったく知らなかったのだが、蘇東坡先生の妾だか奥さんだった人なのですね(第2夫人とのこと)。
戻ってきてから調べて知りました。1096年死去して墓が作られ、清代嘉慶年間に改修されたとのこと。
蘇東坡記念館周囲では、恵州のジオラマがあって、地図に載っていない史跡についても載っていた。
蘇東坡の旧宅や、宝塔とは別の塔などの情報を得ることが出来た。

蘇東坡記念館のの改修が一番大掛かりで、「ご迷惑をおかけいたします。足元注意」みたいな立て看があり、
練ったコンクリやレンガが錯乱し、まさに建設中の回廊などを通ることになる。
驚いたのが、建設工事をしているの人々の中に、おばさんがいるのはもう見慣れたが、
(前回貴州省では、近所のおばさんとしか思えない人たちが高速道路を工事していた)今回は、少年をみかけたこと。
どうやら、そのあたりの工事は、少年とその父母が請け負っているらしく、家族請負という風情だった。

蘇東坡記念館の次は、博物館に向かったのだが、地図が甘くて道に迷っているうちに、博物館閉館時刻となってしまった。
17時半に博物館に着くと、まさに閉館時間。

                                                    
                                まよっているうちに目にした典型的な共産国風の古いアパート。あまりに典型的過ぎて、思わず撮影してしまう。

迷っているうちに段々足が痛くなってくる。
足を引きづるようにして、先ほど蘇東坡記念館内で情報をゲットした塔を見に行くことにする。
歩行者天国である中山路を観光しながら抜け、東江に面した東新橋の付け根部分にある。
17時55分到着。文笔塔。清朝末期の建設とのこと。
18時20分、恵州汽車総站着。蛇口行きバスがあったので、それにする。40元。
18時40分発。蛇口とは一体どこで下りるのか、と思っていたら、なんといつも使っているバス停そばが終点。
そういえば、蛇口汽車站というバス停をたまに使っているが、これだったのか。
市バスの格納庫なんかだと思い込んでいたが、よくよく見ると、長距離バスターミナルだった。
今まで自宅近所で、何故長距離バスを見かけるのだろうか、と思っていたのだが、これで謎が解けたのだった。
21時頃、自宅に帰り着く。

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