9月14日

 8時45分頃軽く朝飯。 フルーツとフレッシュジュースを沢山。
熱は36度に下がっている。
 午前中は部屋で休む。 たまに汗が出る。
他の客はビビ・ハヌム廟、 ウルグ・ベク天文台遺構、 シャーヒ・ジンダ廟へ。

 12時半昼飯。 13時から16時移動。 曇り。 ベンザエース飲む。 
バスの中でタヒールにきいたところ、医者が処方箋を書いてくれた薬はなかった、 とのこと。
どーせ朝熱が下がっていたので、買いに行かなかったに違いない。 
 
 道の大半は中央分離帯に木が植わっている。  途中一部カザフスタン領を30kmほど通る。 
カザフ共和国エリアの部分はまるで滑走路みたいな道路。 舗装の感じからして。
中央分離帯は道沿いの街路樹が、ウズベキスタンとカザフスタンでは若干異なっているので、どちらの領土にいるのかは明確である。
16時シャフリサブス着。 調子は悪くはなさそうなので、観光することにする。

  チムール朝王宮跡、 チムールの一族廟、 モスク等。
王宮門は倒壊して半分の高さ(38メートル)にも関わらず凄い迫力。
展望台まで123段の急階段をあがるとオアシス全体が360度一望できる。 周囲を眺めまわすとこの王宮がオアシスの中心部に位置していることがわかる。 
見晴らし最高。 
しかしこれがまずかったのかなぁ。
 門の前で制服を着た中学生ぐらいの少年達が通りかかる。 「イスミニス・ネ」 と言ったところ、 通じたので驚きだった。 
これが 「言語系列」 ということなのだと改めて実感したのだった。 
 他の場所でも見たのだが、 この国で学生服があるらしい。 日本のものによく似ていた。 というかちょっと見には区別できない、日本でもありそうな制服の男女学生が歩いている。

 モスクでは写真撮影料をごまかしてしまった。 このモスクには100年以上生きている老人が毎日モスクの前でぼーっとしにきているとのこと。名物老人らしい。

最後、本日のガイドさんに 「どーも」 という言葉を教えたら、バスのおり際 客全員にむかって 「どーも」 とやられてしまった。ちょっと、はずしちゃったね。
このガイドさん。地元の民族衣装を着てガイドしてくれた。 紫とピンクのワンピースの様な衣装。 
19時半夕飯。22時半頃寝る。
シャフリサブスのホテルは社会主義風ではなく、2階建てで横に広いホテル。ま、38mの遺跡がある横に高層ホテルは建てられないよねぇ。
 

9月15日

 5時頃、やたら苦しく起きてしまう。 熱を測るとなんと39度。 夜毛布を少しかけすぎて寝汗で冷えてしまったのか、思いっきりぶり返してしまう。
最早薬飲んでも全然下がらない。 どうしょうもない。 起床のノックを無視していればだれかが来るだろうと思っていたら、
なかなか来てくれない。 ぜーぜー息苦しい。 やっとメイドさんが気が着いてくれる。
 井上さん、 昨日の現地ガイドさんに医者を呼んでもらう。 
 2本注射。 この注射はこれまでの人生でもっとも痛い注射だった - 射たれた直後から30分間あまりに痛くて身じろぎすら出来ず、
様子を見にきた井上さんに対してベッドに卍型にうつ伏せたまま応対することになった。

 どうも果物は体を冷やしてしまう為良くないそうだ。 水もだめ。 お茶に砂糖を入れてがぶがぐ飲めといわれる。
さすがに言うとおりにする。 しかし食欲はあり、便もすこしづつ固くなってくる。
 熱は38.4→38.6→38.4→38.2→37.9とだんだん下がってくる。

 一日中、すぐ汗でぐっしょりしてしまうシーツを代えたり干したりして過ごす。何度もシーツの替をお願いして、さすがにメイドさんもちょっと良い顔はしない。
ので、 夕方はテラスに西日が当たっていたので テラスに2枚のシーツを干す。二人のメイドさんとガイドさんにお礼に絵葉書を渡す。
 皆今日はダルベルジン・テペ(大月氏の都とか)へ行っていて、早朝5時にでて22時に帰ってきた。 怪我をした藤木さんと、遺跡に興味ない井上夫妻だけ
が残って、ついでに私の面倒をみてくれたというわけ。

 22時すぎ、タヒールと石川さんがくる。 石川さんは腎盂炎を心配しているのであった。
息子さんが腎盂炎で苦しんだのだそうだ。 帰国するなら、 タシュケントから正規料金になってしまう、とのこと。
私としてはアシュカバード迄いって、 そこでイスタンブール経由で、 と考えていたのだが、 タヒールは、 アシュカバードからの便はないという。
結局ブハラまでは行かなくてはならないし、 ブハラで検尿することができるので、 その結果をみて、ということになる。
 石川さんが引き上げてからタヒールと少々話す。 タヒールは妻子がいるくせに日本人女性と付き合おうとしているのだった。
その女性は北海道で旅行会社に勤めているらしいのだが、11月になったらタイでバカンスに落ち合うのだそうだ。
 その結果が良好ならば、 翌年日本の彼女の家へ行くそうな。
 どうも二重結婚をもくろんでいる様なのである。 とんでもねえやつだが、 どうだろう、 と相談されてしまった。
 タヒールが帰ったのは24時がすぎていたと思う。 
 どうか明日朝ぶり返していませんように、と祈りつつ眠りにつく。
 
 

9月16日
 

 朝37.1度。8時半発11時半ブハラ着。
 「俺達は勝つ!絶対に勝つ」 という何かの台詞が頭の中で繰り返しつづける。 
これはイランへ入るまでしばらくの間私のスローガンとなる。

 13時昼飯。 15時、ホテルの医者へ。 明日朝検尿をとり、一緒にラボラトリーへ行くことになった。
 16時、タヒールとバザールへパジャマとカップを買いに行く。
 バザールの売り子達は 「アリガトウ」 とか知っている。 タヒール薬を買ってくる。 薬飲んだので体温は順調、 汗が出続ける。
 石川さんから、立場上当然の話だが 自分の責任範囲を明確にするため、 夕食時みなの前で、
「私は帰国をすすめたんですが、ご自身が自分で判断して旅行を続行することにした」 という声明出す様に言われる。
 ま、当然なのだが、打ち合わせなしに食事の席で突然やられたのですこしむっとした。

 丸山さんに言われてこの日以降靴下を履いて寝ることにする。 この習慣は中国旅行でも続く。 
眠る前に 神に、明日朝起床時熱が上がらないよう、 朝起きてからは、 熱がぶりかえさなかったことを祈る習慣になる。
 この習慣もイラン旅行から帰るまで続くことになったのだった。 
 これ以降健康に今まで以上に敏感となり、 これもトルコにくらべ、 イラン・中国での訪問先が減った理由の一端をなしている。

 他のみなはヴァラフシャン(8世紀頃の都市遺跡)へ行った。 ここから1時間半の地点にあるとのこと。
どうやら一般のバスはない様で、いつか自力で来たとしてもタクシーとなるだろう。残念だったが仕方が無い。
 
 

9月17日
 

  今日は他のみなはブハラ観光。
12個所以上をまわる忙しいスケジュールらしい。

 私は朝一で尿をとってホテルの医者、タヒールと一緒に中央病院へ。
中央病院というのだから近代剥き出しの味も素っ気もないビルかと思ったら、ブハラの旧市街にあり、外見は古い石積みの建物。 
 
 審判を待つ気分だったが、検尿の結果はOK。 医者にこの3日間の体温の変化表をつくって見せる。 医者はこれをみて、 「職業は?」 
と聞くので、 エンジニアだというと、 なるほどね、 いやこんな表をつくるから、 一体どんな職業かと思って、だそう。

 検尿の結果 とりあえずタンパクはでていないので、病気ではなさそうだとのこと。 旅行続行。 
戻る時残りの薬購入。 病院はブハラ旧市街の中心にあり、2階の窓からカラハン朝の塔が見える。

 戻り、タクシー拾えるところまで、旧市街をすこし散歩。 お陰でちょっとは観光にはなった。 
10時頃戻り13時まで部屋で寝る。
 昼食後も14時から17時部屋で寝る。

  調子はわるくはなさそうだったので17時半から19時まで神学校の中庭でのウズベキスタン舞踊コンサートを未に行く。
風が強く冷たかった。 風に当たらないように 奥でお茶をとぎらさないようにみる。 
体温は昼36.7、 17時36.9、 21時36.4度。 21時に寝る。布団はいでも多少大丈夫になる。
 

9月18日

 7時起床、朝食。朝食では他のツアーの団体と一緒になる。 
8時50分出発。 最初に(確か)チャシュミ・アユッブ廟を見に行く。 改修というより増築されている。 遺跡公園として整備しているのである。
次いで サーマン朝イスマ−イール廟は 公園の中にあり、 廟の前では彫刻師が 銅の彫り物作成実演、 更に画家によるブハラの絵が売られていた。

 バラハウズモスクとブハラ汗国内城見学。
 モスクの前は池があり、汗国の盛時にはもっと大量の池があったそうののだが、伝染病の元凶となった為、今は埋められてしまったのだそう。
 ブハラ内城には民族博物館と歴史博物館があり、サーマン朝、 カラハン朝、 カラ・キタイ、 モンゴル、 チムール、 シャイバニー、 2汗国というのがこの博物館に限らずこれまで見た博物館での展示のパターンとなっている。

 11時45分頃昼飯。 13時ブハラ出発。 
ブハラを出るとすぐキジル・クム沙漠に入る。 延々とタマリスクや雑草と沙漠が地平線の果てまで続いている。
 
17時15分アムダリア岸で写真休憩。 アムダリアは非常に広大であった。 しかし多分これは堰止湖となっているから、こんなに川幅が広いのであろう。
でないとへたすると川幅は6,7キロに達しそうである。 
17時50分分岐ダム。 ここでアムダリアはタシャウズ方面の灌漑運河と本来のアムダリアに分岐するとのこと。
 左の窓に夕日。 このあたりから両側に綿畠が続く様になる。 また緑の地帯が戻ってきた。

 19時15分ウルゲンチホテル到着。 2階建てのやっぱり共産時代の公共建築物風。
 ウルゲンチホテルの部屋は今回宿泊した一連のホテルの中では、 ブルガリアの私の部屋に一番に似ていた。
毛布を一枚余分にもらう。 
 夕食時のレストランの座席はテラス。 少し寒い。気をつける。 レストランのホールでは何かのショーをやっている。えらいもりあがり。 ひどくうるさい。
我々もむりやり引き込む勢いである。 結婚式とは思えないが、どうも町の有力者が入れ替わり発言しているみたい。 何かの記念日だろうか。
 

 結局サマルカンドとブハラの2/3はみれなかった。 しかし反面サマルカンドとブハラの病院を見学できたし、
予想以上にブルガリア語がロシア語として通用することもわかった(もっとも僕のブルガリア語なんてほとんど出来ないも同じだけど)。
ところでウズベキスタンの医療費はタダであった。ツアーだからと安心して海外旅行保険に入っていなかった(イラン旅行期間中だけAIUに入っていたが)ので助かった。
シャフリサブスではバスのドライバーが医者に2ドルおこころづけとして払ったそうなので、
注射を打ってもらったにもかかわらず、実費はこれだけですんだ。
 

9月19日

 午前中ヒヴァ観光。 内城の見晴台から市街が一望できる。
モスクでの結婚式にでくわす。
アミン・ハーンのメドレセ。アルク。サイイド・アラ・ウッデイィーン墓。 ヒヴァの観光写真によく使われるカルタミノールの塔。 
キャラバンサライを改造したホテル。金曜モスク、イスラームホジャのモスク、 キャラバンサライを改造したバザール。
4人の妃のハーレム、地下貯水池等を見学。

 バザール近くでイランを旅行してきた日本人学生に会う。 石川さんはああいう汚いのが嫌いらしい。
「あーゆー格好をしいると日本人全員が汚いと思われる」 ということだそうだ。 確かに それはそうかも。 ラフなのと汚いのとは別。

  結婚式を何組も見る。 

 昼食をヒヴァ内でとり、ヒヴァ観光終了。 タシャウズへ向かう。

  タシャウズではトルクメニスタンとの国境で大分またされる。 
 おかげで飛行機をひと敏おくらせる羽目に。 日は大きく西に傾き、国境を通過した頃は殆ど日没であった。 

 国境通過してトゥルクメニスタン側タシャウズの市街。典型的社会主義団地が立ち並ぶ。
 夕飯はそうした団地の一角にある韓国系の店。 しかし内容はやっぱり中央アジア風。
 食事をして出ていたら、日は暮れて既に暗くなっていた。 
20時頃、空港着。
21時16分離陸。 

 スチュワーデスはモデルみたいな凄い美人。 飛行時間は短く、お菓子とジュースがでたくらい。
窓から外を見ると、時折地上に明かり。 22時18分アシュカバード着。
 井上さんは他の乗客にトゥルクメニスタン語を習っていた。 良い姿勢である。 
僕もそうしたかったが、隣のおっさんに声をかけるエネルギーは残っていなかった。

 アシュカバードの空港は現代的な飛行場。 ソフトなオレンジの塗装が特徴。 ちょっとトルコのアンタルヤのバスターミナルを連想。
 ベンツのバス。 結構疲れている。 23時ホテル到着。
 ソフトなグリーンの塗装。 ずいぶん良いホテル。2階建てで、カナダの山奥のコテージ風のホテルといった風情。
 しかし水は殆どでない。 翌日聞いたところによると、部屋によってはたくさんでたところもあるとのこと。
 一枚余分に毛布もらう。
 

9月20日

6時53分起床。 8時朝食。 朝食は外のレストラン。 結構いい店。 というか欧米では普通のレストランだが、
ここいらでは最近出来たものであるはずだから、取りあえず外国人向けであり、現地人にとっては高そう。

 9時15〜10時45分ニサ遺跡見学。
 ほとんど風化しているけど円形都城市の概観はよく残っていた。
市バスはない。中心部の倉庫は殆ど修復というよりは創作。
 
 ロシア人ガイドはうわさではちょっと扱いにくいとのことであったが、言われていたよりはましであった。
 一応資料もきちんと揃えていたし。

 11時45分アナウ・テペ遺跡。 先史時代のテル。 カラノヴォみたいな所。 近くに15世紀のモスク跡(と都市遺構。今世紀初めに地震で倒壊とのこと。
この跡地で、願懸けをする場所があり、 3周半まわって御願い事をするとか。一応旅行中の健康をお願いする。

 外国投資は殆どアシュカバードに集中しているみたい。 中心部はやたらモダンでカラフル、イタリア家具のような、原色系だが抑えた、落ち着いた淡い色調の建築物であふれている。
それでも一見ラブホテルのよーな官公庁。 国中あちこちキンキラキンのニヤゾフ大統領像。 なんだろうね。
 平均月収30ドルのわりには集合住宅にパラボラアンテナが乱立している。
この国ではニヤ遺跡から市内への道路はイランとの提携・投資によりイラン人が作ったものなのだそうだ。
 道路沿いには不釣り合いなくらい多くのホテル群、 おニューの歴史博物館、 大使館などが並ぶ。しかし赤茶けた土地の街道沿いにポツポツと現代建築が並び、
ちょっとおかしな感じ。 
 
 アシュカバードとは愛の町、という意味だそうな。 

 絨毯博物館は今日は休日であった。 あらじめアポイントをとっていたにも関わらず、閉まっていた。 ありがち。

 13時半〜14時40昼食。 バーのような店。 お菓子を遠藤さんと石川さんが買っていた。
トゥルクメニスタンの紙幣を見せてもらう。 店の横に少女の銅像。 しかし記憶は二宮尊徳。

 午後マリへ移動。 ニヤの遺跡で走り回ってしまったからだろうか、やたら疲れている。 350キロくらい。 それほど長いとは思えないが、酷く長く感じる。
右手の山脈8イランとの国境をなす)がだんだん低く遠くなる。
 マリ方向へ北上にはいってしばらくしたところで左の窓地平線へ日没。 

  マリへは日が暮れてから到着。 国境への送迎の件を扱う現地ガイドを紹介される。 ここでトラブル。
詳しくはイラン旅行記に記載。 添乗員と口論となり、熱がでてきてしまった。
ロビーのテレビでダイ・ハードが放映されていた。
 
 

9月21日

  6時半起床。7時朝食。マリ考古学博物館も小さい。 しかし小さいわりにまあまあ。
アケメネス朝、 パルティア、 ササン朝、 クシャン朝、 セルジューク朝、 シャイバニー朝の遺物等がある。
 メルブ遺跡のノンリアルスケールの平面模型が入り口に展示してあった。 出口のところには絨毯の展示と販売。

  マリからブハラ方面へ25キロのところにメルブ遺跡。 予想以上に広い。 びっくり。 予備知識が一切無かったのでよけい驚き。
乗り物が無いとこれは見ては回れないだろう。
  スルタン・サンジャル廟。 修復中。 フランス人歴史学者がいた。 石川さん 「あんな風にやりたいことやっていきてゆけたらいいわねぇ」

 キズカラ遺跡。 遺跡前には復元想像図が掲示されていた。 ササン朝の遺跡を初めて目にすることが出来て感激。

  遺跡出口のところでツアー客と別れて、 今日の博物館とメルブ遺跡のガイドさんと一緒にタクシーでマリ市街へ戻る。
 昼飯はビニール袋入りのものをターヒルからもらう。 

 マリや、遺跡近くのバイラム・アリの町などを見てみると、アシュカバードに対して地方はぼろぼろという印象を持った。 格差はブルガリアよりひどいかも。
 ソ連崩壊後の欧米からの投資はアシュカバードだけに集中しているとしか思えない。

 午後はもうゆっくり休むことにする。 午後1時半だったか、現地旅行社の若者(英語が話せる)とロシア人に会う。
 他は夕方ちょっと散歩したくらい。 巨大なニヤゾフ像が印象に残る。
 
 

(最後に)
1. ここでだったかウズベキスタンであったか、面白かったのが、キリリッツァとペルシャ文字、ラティン表記の包みのお菓子が売っていたこと。一応捨てずに持って帰ってきてしまったが、文字通り「インターナショナル」を体現している包装紙だと思う。

2.ウズベキスタンのお茶は中国茶。干支も生活風習として浸透しているのには驚いた。
 しかしホテル、 道路の舗装状況、 ぼろバス、 目にする光景はブルガリア。
日曜品やおもちゃの類は中国製。 旧共産圏はやはりなにか共通している様である。
 若干異なるところもある。 外国車はDAEWOOだけ。 ウズベキスタンにDAEWOOの工場があるとのこと。 他は旧ソビエト製。
ウズベキスタンでは半数以上モンゴル系というよーな顔付きの人々が多かったが、南下するにつれトルコっぽく変化していくようである。
トゥルクメニスタンではお茶は基本的に中国茶だと思うのだが、非常に濃くて紅茶に近い。

移動距離 2545K