アルサケス朝

【国家】
 

 パルティアは  メソポタミアの自治都市、主に辺境地帯にある半独立国・独立領主、パルティア本国とから構成される連邦だった。 プリニウスは18の独立王国があるといい、3世紀初頭の王朝末期には240の領主に分裂していたという伝えも残っている。 このうちアルメニアとエリマイ スが第1級の地位にあった。カラケネ、エリマイス、ペルシスだけが貨幣鋳造を許された。王の遠征が、伝達官によって、首都などで叙事詩のように語られた。 これにより国民は、王の状況を知り、国としての一体感を保持に有効だった可能性がある。

ニサ出土文書によると、マルズバーン、サトラップ、ディズパットの順で知事が存在した。それぞれ、州、県、村 に対応していると考えてもよいかも。しかしこれは東部地方に限った統治形態だったのかも知れない。


 
時代
王国・都市


1世紀末 イベリア、アルメニア、アトロパテネ、ゴルディエネ、アディアバネ、エデッサ、ハトラ、メセネ、エリマイス、パールス、ヒルカニア。
彼らは独自のコインを発行していた。

メソポタミアのニケフォリウム、アンテムシアはギリシャ人都市。ハルス、アルテミタはパルティア人都市。

 
王国
現在の場所 
概要 
インド=パルティアン王国 現シースターン スーレーン家のゴンドファルネス王時代が最盛期。
パールス 現ファールス地方 パルティア構成国中もっとも大きな国(一般にフラタラカー政権と言われる。統治者一覧表はこちら
ヒルカニア カスピ海の東南地方
アルメニア王国 現アルメニア ランク1位の王国。(統治者一覧表はこちら
イベリア王国 現東グルジア 統治者一覧はこちら
アトロパテネ(メディア) 現イランのアゼルバイジャン地方 アルメニアと並び、ランク1位の王国。旧メディアの北部領域。英語版Wikiに地図がある。首都はプラアスパ(現タフト・スレイマーン)
ゴルディエネ

アディアバネ王国
現イラクの北部
初代イザテス1世。ヘレナとモノバズスが子で二人は夫婦に。30年頃モノバズス 王位に。その息子イザテス2世はカラクス王家で育ち、ユダヤ教に改宗、後アルタヴァヌス3世を助け、彼の復位に貢献。返礼としてニシビスを併合。メバルサ ペス(‐116‐)、ナルセス( ‐197‐)。英語版Wikiに地図がある
エリマイス(エラム)王国

現在のアフワズ、スーサのあたり

カマンスキロス王朝。古代エラム王国の継承国。統治者一覧表はこちら
オスロエネ 現トルコのエデッサ(シャンルウルファ)周辺 王は代々アブガルス(アラブ系の名)を名乗った。前132年頃成立。トラヤヌス侵攻後はローマの従属国に。紀元216年ローマに併合。3世紀後半サーサーン朝治下へ。3世紀末再度ローマ領に。4世紀にキリスト教化。エデッサ近郊にソーマタル遺跡が残る。
カラックス(カラケネ) 現クウェートのあたり 統治者一覧表はこちら
メセネ

ハトラ 現イラク北部 パルティア時代遺跡として有名な都市遺跡が残っている。

コマンゲネ

オスロエネ王国の北

ネムルト・ダー遺跡が残っている。

 オマーンのウバール遺跡から、パルティアの影響下にある陶器が発掘されている(出典:記事1記事2)。また、「エリュトラー海航海記」には、クジャラート沿岸地方のパルティア人領主達について言及している。このことから、アラビア海・インド洋は、パルティアの影響下にあったと考えることもできる。また、「エリュトラー海航海記」によれば、アラビア半島の紅海側は、ローマの影響下にあり、インドの西岸はローマの勢力圏にあったことになる。

【称号】

マルキーン・マルク(諸王の王)、バシレイオス・バシレオン
            
【王位継承】
 
国王は一つの王家が続いたわけではない。 分家 かあるいは封建臣下が国王についたケースも多々あったようである。ゴタルゼスはサトラップだったが、後に王位についている。アタルヴァヌス3世はヒルカニ ア(またはアトロパテネ)の代官だった。この代官はローマの総督に近い役人だったとされる。この代官がアルサケス王家の一員であった場合、王国は比較的集 権的に統治された。しかし彼ら代官はしばしば王位を狙って騒乱を引き起こした。 ゴタルゼスは王家の傍系だったとされる。 宮廷は王家の近親とマギなどの 知恵者の2つのグループから構成されており、王はこの両者どちらの出身者もいた。スーレーン家により戴冠される習慣があった(ティグラネス2世)。オリエ ントの王家の子は別の王国で育てられる習慣があったらしい。暗殺の恐れからである。


【政治組織】

 
書記(dibir)は、パルティア時代からおり、前1世紀のニサ出土史料に多数氏名が出ている。また、 アルダワーン4世の軍の書記官の長(国務長官に相当)は、アルダシールへの敗戦後、処刑されている(TafazzoliP26)。dibiran -mahist(パルティア時代のチーフセクレタリ。TafazzoliP36)
ビタックスという官位。
2種類の徴税地区 ウズバールとパトゥバジーク バージーグバーン(税関)
税収 シリアにおける人頭税 14歳-65歳男性は、12-65歳女性に。またユダヤ人は1人あたり1ドラクマ。
 

バビロニアのユダヤ人街

王宮 男性の部屋、女性の部屋 屋根や真鍮、黄金と銀の刺繍、黄金の板で飾った柱廊玄関 刺繍の主題はフギリ シャ神話、クセルクセス海戦、
後宮に宦官がいた
外国人は町の門で王の黄金像に口づけをする
マルギアナの鉄でできた兜 騎兵は臑当てをつけなかった。盾はもたず、長槍をもった。有刃戦車はあるにはあった。攻 城戦いは苦手武具にはスキタイ式とパルティア伝統のものとがあった。 馬は鎖帷子で完全武装していた(ドゥラ・エウロボス出土の遺物あり。ダマスクス博物館)
戦闘での右手と頭の切断の風習
「右手を新しくする」水に流して新たな誓約を結びたい。または右手を捧げる、右手を与える
撒きビシが217年ローマ軍によりから用いられた(中国では戦国時代から)


【首都】

 初期の首都はミトラダトケルタだが、ペカトンピュロス、クテシ フォンへと西遷している。ヘカトンピュロスへの移転はメディアへの進出が理由だが、クテシフォンへの遷都は東北領域への異民族の圧力にも一要因と考えられ る。
 

【社会】

 パルティアは基本的に封建諸国に分かれていた為、諸王国の社会は従来の社会が継続していた可能性がある。

 現イラクやイラン高原などの直轄領土については、初期においては、セレウコス朝の状況を継承し、ギリシア人の入植都市と、イラン人やセム系民族をはじめとする現地人の集落は住み分けていたとの考えもある(ただしこうした状況下でも、「ギリシア人都市と、周辺農村のイラン人 の交流があったと考えるのが普通」との考えもあるとのこと)。パルティア社会の状況を直接に伝える資料は少なく、パルティア時代の伝承に遡るとされる、11世紀の文学作品「ヴィースとラーミーン」に、その景観の一端を垣間見ることができる(そこで、ヴィースとラーミンにみるパルティア時代の景観についてこちらにまとめてみました)。

-参考資料 

 Cambridge History of Iran Vol3-1

  Sasanian Society: Warriors, Scribes, Dehqans (Ehsan Yarshater Distinguished Lectures in Iranian Studies, No. 1) (ペーパーバック) Ahmad Tafazzuli (著)

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