4月30日

7時起床。22分出発。
7時半頃駅前に行く。多くの白タクがたむろしていて、小型マイクロバスも1台とまっている。
が、切符売り場と思しき数人の親父がたむろしている事務所にいくと、一番偉そうに、
デスク席にふんぞり返っている親父が、12時までアラベルディ行きバスはない、という。
やれやれ。またか。交通事情が悪そうだからどうしようもないか。
というわけでタクシーにする。
交渉して5000。
まだ甘いと思うが、少しづつコツを思い出してくる。

幹線道路なのに、丹沢山中の県道みたいに、曲がりくねり上下の激しい、見通しの悪いコーナーを、しかも雨が降っている中、80kmで飛ばす。
しかも道はところどころ陥没している。
少しばかり引きつってしまう。
おかげで3,40kmの距離を35分で着いてしまった。
8時15分のアラヴェルディは、ヴァンゾールよりも更に田舎の町で、下ろされたところはバスターミナルとは思えない、
事務所のような4,5階建ての建物と、タクシーの運ちゃんたちが朝食をたむろしているレストランバーの間のちょっとした広場。
朝の遅いアルメニアなので、通勤者もまだいない。
タクシーの運ちゃんがうるさくよってくる。
ハグパットとサナヒンで6000でどうだ、という.。どうも、どの運ちゃんもまず、6000といってくる。
6000が一日の基本的な収入目標なのではないか、と推測されてしまう。
一人カモを見つければ、その日の商売は終わりというわけだ。
まだ8時なわけだし、サナヒン修道院へは、歩いていくつもりだったので、断って、ハグパットだけということで2000まで値切って、
バス停の場所さえ定かでないハグパットはタクシーを利用する。しかしまぁ、タクシーでよかった。
ハグパットは、峡谷の上、大地上にあり、その登山口まででも5,6キロはありそうで、予想以上に遠い。
更に断崖を、右に左にうねりながら、急向背を登ってゆくが、ここも5,6キロはありそう。
歩くと2時間半から3時間はかかりそうな距離である。、8時45分。ハグパット着。


小雨がけぶる中、開錠されてない門を乗り越え、敷地をひととおり見 学する。
修道院は、村の中に位置し、生垣に囲まれた敷地内は、緑の雑草に覆われ、灰白色の建築物群が立っている。
ここだけ見ていると、ケルトかスコットランドのイメージに近い。
建築も、色は、アニーの黒とオレンジと異なり、灰白色だが、構造は似ている。
10時になったら、開錠されるので、中も見れるよ、といわれたが、まだ先にもいくつも修道院があるし、
中はインターネット上で画像をさがせば、後でも見れるだろうと思い、9時05分、ハグパットを後にする。
親父戻りの車の中でも、しきりにサナヒン行きを勧誘してくるが、断り続ける。


一度元の場所に戻り、サナヒン行きのロープウェーを探すが、見つか らない。
ひょっとして営業していない可能性もある。そこに先ほどの親父が戻ってきて、しつこく勧誘するので、サナヒン+国境までで4000で交渉する。
最終的には歩けばいいと思っていたので、強気で交渉していたら、この額でいいとのことである。
さては、やっぱり6000が目標値なのか。。。。と思ってしまう。
この計算だと1ヶ月で500ドル程になる。


サナヒン町は、谷底のアラヴェルディの町の南の断崖上にある。
ハグパットのある台地の西隣の台地という位置づけ。
町まで、いろは坂のようにうねる道を5,6キロ上がると、意外にも5,6階建ての旧ソ式アパート群が登場し、ちゃんとした町があるのに驚く。
どうやってここまで水をあげるのだろうか、とも思うが、南北に山脈があるので、そこから引くのだろう。
途中何台ものバスとすれ違い、道中1台しかすれ違わなかったハグパット村に比べると、交通事情は格段によさそうだ。
サナヒン町に入ったところにバスターミナルとおぼしき、バスが数台止まっている広場があった。
町にはいったところで親父がアパートのひとつを指差し、あれが俺の家だ、と言っていた。


サナヒン修道院は、 サナヒン町の東に隣接するサナヒン村にある。
ハグパット同様、灰白色の石積みだが、つくりが少し違っていて、これはこれで見るべき箇所がある。
近所の人に外門を開けてもらい、見学。こちらは、内部の公開はしていないようである。
9時45分まで見学し、国境に向かう。


途中親父にタバコを勧められる。
睡眠薬でも入ってやしないかと用心するが、なんてことない普通のタバコだった。
警戒しすぎて味をよく覚えていないが、吸いやすいタバコだったと思う。
昨日と今朝の親父と違い、よくしゃべる親父で、なぜかこの親父のロシア語は、多少通じる箇所も多く、あんまり退屈せずに10時50分頃、国境到着。
値切りまくったのに、あまり文句を言われなかったので、タバコも2 本もらったし、500余分に渡すと、すごく喜んでいた。
たいした額じゃないが、誠意は伝わったということなのかも。
デベト川は、アラヴェルディあたりでは、激流となっていたが、国境近くになると、両岸が開けだして平地となって、多少流れも緩やかになってきている。



歩いて国境を越える超えるのは4度目で、なんとはなしに、ブルガリ アのシリストラからルーマニアにお入ったときのことを思い出す。
なぜかと言えば、ブルガリア側は、国境際までアパートが立て込んでいて、
アパート街の門のような感じでルーマニアへの国境があるロケーションだったのに、ルーマニア側は何もなし。
ほぼ原生林に近い状況。町は2キロ程先にあった。


今回これと同じようは羽目に陥った。
国境を行き来する車は多そうで、何台もの車がゲート前に列を作っていて、アルメニア側の事務所もコンクリートつくりの立派なもの。
ここにカスタムと両替所があったが、なんとグルジア通貨は取り扱っていないとのこと。
雨にぬれながら、列をまって出国すると、グルジア側で待っていた建物はプレハブで、ゲートの外にはバスやトラックの駐車場があるだけ。
このあたりも、ルーマニアに抜けた時と同じような印象である。
そしてルーマニアより悪いことには、グルジア側には両替所はなかった。
ルーマニアのときは、一応原生林前の路上に錆びて傾いたバス停があったりしたが、こちらには、バス停すらなく、ワンボックスワゴンが1台止まっているだ け。
でも、キリル文字でトビリシと書いてあったため、運ちゃんに聞くと、乗れとのこと。
金が無い、とAMDを差し出すと、その辺を売り歩いていた物売りのおばあちゃんを呼んで、両替してくれた。
全部で4000AMDを渡しで、戻ってきたのは13ラリ。
後で計算したところによると、20ラリ相当になるはずなので、7ラリを乗車料金として取られた計算になる。
その後の旅程で平均的なバス料金を知ることになるが、この時の7ラリは、手数料と、
国境というところからの移動を考えれば、ちょっと高いけどまぁ妥当な額のようである。


11:15分バスに乗車し、13:30分頃、トビリシ着。
トビリシまでの景色は、山が低くなだらかになり、丘に変わってゆく、緑あふれる景色。
このあたりも、ルーマニア・ブルガリアに似た感じ。トビリシに着く頃には雨もやみ、晴れ間が出てくる。
割と大きな駅に着き、殆どの乗客もここで降りてしまい、乗客はおばさんと私だけになってしまったが、降りようとすると、「トビリシはここじゃない」と引き 止められた。
途中でタイヤ屋によったりと、まっすぐ駅に向かっている感じもないので、
おかしな場所に連れて行かれるんじゃないかと若干不安になったが、着いたところは、トビリシ駅の裏側のバスターミナル。
どうやって表側に出るのかよくわからず、駅構内のバザールなどを迷ったりしながら、
最終的には一度ホームに下りてから地下を通って表側に出て、今出てきた駅を見返すと、その多きさに少し驚き、「やっぱ100万都市はこうでなくっちゃ」と 思ったのでした。
バスが最初に停車した大きな駅は、トビリシ市外東端のサム・ゴリ駅で、ここもイエレバン駅より十分大きいため、トビリシ駅だと誤解してしまった。
この実感は、その後も変わることはなく、アルメニアには悪いけど、イェレバンは、ブルガリアの地方みたい。
グルジア・アルメニア合わせて、面積・人口・規模ともにブルガリアに匹敵する感じ、という印象は、そのまま今も持ち続けている。


トビリシ駅について、早速いくつかの仕事を片付ける。まず時計を1 時間遅らせて12:30にして、

1.両替。駅前を西に伸びている大通り沿いの銀行で 200ドル両替。早速スプライトとサンドイッチを購入。1ラリ100円の感覚。

2.昼飯。上げパン0.5、サンドイッチ0.8、スプライト 500m、1ラリ
3.クタイシまでの夜行汽車のチケット購入。10ラリ。21時50 分発車予定。
4.アエロフロートのオフィス探す。地下鉄で、ルスタベリ駅に出 て、1999年のガイドブックの地図にあるオフィスを探すが見つからない。
ルスタベリ駅前には3階建てのマクドナルドがあっ た。その辺の旅行会社の人に教えてもらった住所に、 タクシーで行く。5ラリ。
オフィスに14時50分頃つくが、14-15時は昼休み。10分待つ。
チケットの空港変更はできない、とのこと。5月いっぱいは満席で、新しい便の購入もできない、といわれて、空しく戻る。


帰りは2番のバスで戻る。
バス代02ラリ。この後観光に出る。
アヴラヴァリ駅まで地下鉄で行って、メテヒ教会へと歩く。地下鉄は、旧ソ式に、えらい地中深く、また、エスカレータと、プラットフォームのドームがやたら 巨大。
液晶パネルが設置してあり、広告が流れていた(ような記憶がある)。

切符は自動販売機がなくて、切符売り場で行き先を告げて買う仕組 み。
トークンをもらって、それを改札に投入する仕組みである。


16時頃、メテヒ 教会に着く。
写真でも何度か見たことがある、トビリシ市街中心部を流れるクラ川のほとり、突き出た崖の縁に位置し、観光のランドマークともなっている教会である。
13世紀の再建とあるが、きれいに修復されていて、あまり古びたイメージはない。
最近の建設ならばともかく、ベージュ色をした教会というのはあまり見たことがない。
中は普通に運営していて、信者というよりも観光客の方が多そうな感じ。
教会前の広場にも、観光バスが駐車していた。ここで、一人の日本人に会ったので、情報交換した。
風がものすごく強く、立って話をしていられないくらい。教会の中に入る。
彼は、昨夜アゼルバイジャンに着き、そのまま夜行で今日の午後、トビリシについたとのことだった。
で、また今夜夜行でイェレバンに行くという、私でも驚く程の超ハードスケジュールである。
電車の旅が好きな人なのだろうか。

16時35分頃、シオニ教会
このあたりは旧市街のようで、19世紀風の2、3階建ての住宅風建築が、曲がりくねった石畳の通り沿いに連なっている。
シオニ教会がある付近は、中でも観光客用の、洒落たレストランやバーが集中する街区にある。
この付近は最近整備されたようで、このときも、オープン間際の内装工事中のお店を何軒か見かけた。
シオニ教会は、グルジア正教会の総本山とのことであり、地元の人と思われる人々が次々に集まっては、入り口付近で十字を切って出入りしている。
入り口付近には、数人の物乞いがいた。現役の教会であるため内部も外部も修復されているので、あまり史跡という感じがしない、普通の教会という印象であ る。


17時20分頃、要塞の丘に登る。
距離はあまりないが、意外に坂が急で、疲労のたまっていることから、結構つらい。
が、要塞天辺から、トビリシ市街を見渡す眺望は最高だった。強い強風に、空模様はくるくる変わり、雲が吹き飛ばされてゆく。
うっかりしてるとこっちの身も吹き飛ばされそうになるくらいの強風である。
トビリシのイメージは、この風の強い丘というイメージに強く結びつくことになりそうである。
少年少女の観光客が来ていて、携帯電話のカメラで記念撮影を頼まれたが、携帯カメラなど使ったことが無いので、戸惑った。
街中を眺めてみても、携帯電話は普通に広まっているようである。


17時50分、かなり疲労がたまってきて、半ば足を引きずりなが ら、古代ロマネスク式の教会、アンティスハティ教会へ行く。
ここも現役の教会だが、ほぼ古代の形式を残していてた。しばらくベンチに座って休憩する。ひんやりとして落ち着いた空気が心地よかった。


18時20分、旧市街の観光レストラン街にある中華屋へ行く。
疲れすぎていて馴染みのものが食べたくなる。
入り口に兵馬俑の兵士2人が立っている、いかにも中華というお店。
でも店員は現地人だった。
このお店は価格はあまり高くはなかったが、ジャスミン茶がなぜか馬鹿高かった。
料理が10ラリ程度なのに、中国茶が8から13ラリもした(1ラリ0.68ドル程度)。
お茶はどこでも高いのかと思ったらそうではなく、翌日の夜行った別の中華屋では、1か2ラリ程度だったから、この店が特別だといえる。
今思えばこの店のサービスはまぁまぁだった。翌日の店に比べれば。


ただまぁこのお茶と一緒に砂糖も配られてきたので、入れながら飲ん だが、疲れていたので心地よかった。
中国急須一杯、4人分飲むまで店で休む。


本日の印象は、アルメニアは、私が住んでいた当時のブルガリアとい う感じ。
これに対してグルジアはのトビリシは、地下鉄があり、マクドナルドがあり、旅行客が求める都市のインフラが普通にあるという印象である。


19時30分頃店を出て駅へ向う。
ルスタベリ駅まで観光しながら歩いていると、ライトアップされた、議員会館や、共和国議会の建物、高級ホテルなどが立ち並んでいた。
それぞれ色を変えていて、スタイリッシュ。このあたりには、センスを感じる。
外国語書籍を扱っているお店も発見する。グルジア紹介の大型の写真集を見かける。
58ラリと高くはなかったが、歴史の話が少なく、ブドウとワイン関係の話題が大半だったので買わなかった。


街を歩きながら、「チケットに書いてある3:25って、ひょっとして到着時間のことか?」とチケットを購入したときに、よく確かめなかったことを後悔す る。
チケットは数字以外はグルジア文字で書かれているので、よくわからないのである。
20時頃駅に着き、1時間半程、ロビーで待つ。
このとき、チケットを取り替えてもらい、黒海沿岸の町まで行くようにすれば、
この後ひどい目にあうこともなかったと悔やまれるが、地方の交通事情がわからないので、当初の予定通りとした。
1999年のガイドブックに、「朝7時につく」などと記載されていたので、
疑うことなくしたがってしまったのだが、考えてみれば、当時よりは交通事情は改善しているはずである。
今では3時間半も短縮して、5時間半で着くのだった。


21時30分頃列車に乗ると(2等)、弁護士の28歳くらいのニッ クという若者と一緒になった。
疲れていたし、明日3時到着ということになると、直ぐ寝てしまいたかったのだが、水とおつまみを出されて、1時間くらい話をする羽目になってしまった。
彼は、父親がカザフ人で、5歳頃までカザフに住んでいたとのことである。
あまり人種や国家を気にしたことはなく、カザフ語も話せるが、自分としてはグルジア人のつもりだ、と言っていた。
このあたりは、旧ソ連のユニバーサル的な志向の賜物かも知れないと思う。
あまり偏狭な民族意識はないようである。ロシア語・カザフ語・グルジア語・英語ができ
、スウェーデンに出張(したのか、これからするという話だったのかよく覚えていないが)したりしているとのことで、極めて普通の青年だった。
アフリカや南アメリカの野蛮なバイタリティに惹かれているようで、将来はそうした地域に行きたいとか言っていたので、この点であまり話は合わなかったけれ ど。
話すだけ話たあと、携帯で家族に電話をはじめて、なかなか寝付けない私をよそに、さっさといびきを搔き始めた。


彼が用意してきたつまみをあらかた食べてしまったのだが、なんだっ たか忘れてしまった。
奇妙な食べ物だが、わりといける、そんな感じだった(なぜかオケラの佃煮を思い出す。もちろんオケラの佃煮ではなかったが)。
今日の出費は11500ADMと44ラリ。


今日一日、「旅の終わり」という感覚に襲われ続ける。

5月1日

熟睡できないまま、3時20分頃起きる。25分に到着。
ニックは宿にいくとのことで、私は駅で夜が明けるのを待つことにしたが、寒くてひどい目にあった。
高さ20m、建て20m横70mくらいありそうな巨大なホールである待合室は、窓が壊れていて、外は雨。
入り口のドアも、頻繁に人が出入りするので、いつも半開き。
駅に残ったのは、20人くらいしかいないのだからなにをそんなに出入りするのかわからないが、5分に一人くはは出入りする。


あまりに寒いので、もっている着替えをすべて身につけて、がたがた しながら、つらい2時間を耐えた。
行き当たりばったりの旅行も、ここまで来ると反省する。
もっと若いときならともかく、年をとってきての無茶は結構堪える。
などと考えたりしながら、待つこと2時間、5時40分頃、耐えられなくなってきたので、1階にいくと、食堂が開いて準備をしている。
あったかいものくれーといったら、肉入りスープとパンを出してくれた。
こういう状況でのこの料理は、万金に値するとは言いすぎかも知れないが、店の主人には感謝である。
スープ2杯飲んで4ラリ。
1時間くらい食事していて、6時40分頃、空が白んできたので、駅を出る。
外は雨。なかなか小雨になりそうにないので、歩くことにする。


それにしても雨は、強くこそならないが弱まりそうもない。
日本風の体に染み入ってくるような雨である。
駅から町の中心部へ向けて、通りの軒の下をたどりながら、ごみ溜めを見つければ、
傘が捨ててないか、傘代わりになるビニールやダンボールがないかと、目で追ってしまう。
今回の旅行は、この日に限らず、ひたすら雨にたたられ、いい加減傘を買えばいいのに、買わずに通したことでの悲惨な記憶にまみれている。


20分も歩くと、旧市街の中心広場に出る。
5メートルくらいの、ダヴィド4世騎馬像が広場の中央であたを睥睨している。
トビリシ市街にも、メテヒ教会前に、ヴァフタング・ゴルガサリ(446〜510年)や、
誰だか確認できていないがホテル・イベリアの前、ディドゥベ駅前など、あちこちに、
この国の過去の英雄(殆ど国王)の巨大な銅像が建っている。日本では馴染みの無い人物ばかりであるが、
こうした人物が、グルジアでは重要視されている歴史上の人物であることよくわかる。


7時40分頃、丘の上のバグラティ大聖堂につく。
雨はやんでいて、聖堂のある丘は町の北端にあり、丘の南端には、中世の城壁があり、城壁をテラスに、
麓をリオニ川の茶色い濁流が流れ、手前に旧市街、その向こうに新市街を見下ろし、
更に遥か南のメスヘティ山脈が東から西まで連なっている。雪の冠をいただいた山脈は標高2500メートル程度。
敷地は広く、教会の東側は、中世の要塞遺跡となっているて、要塞の東端に立つと、東に向かって流れるリオニ川があり、
川の反対側は緑色の小高い山々が連なっていて、その先は山岳地帯、北方の遥かかなたには、
雪をいただいた山が見えており、ひょっとしたら、あれがコーカサス山脈かも知れない。


聖堂は、黄色をしており、トリビシにあったメテヒ教会や、シオニ教 会と同じ色、構造をしている。
1691年にオスマン帝国に破壊されてから、そのままとのことだが、あまり古びては見えない。
してみると、メテヒ教会もシオニ教会も、かなりの程度、原型を保っているのかも知れない。


8時20分頃、聖堂のある丘を降りたところで、タクシーを拾う。ガ イドブックによれば、ここが、
ゲラティ修道院方面へのバス乗り場があるとのことなのだが、一向にそれらしいバスを見つけることができないので、
そのへんにいたタクシーの運転手に、値段を交渉して載せてもらう。ここでもまたアクシデントが起こってしまった。
往復と確認して乗車したのだが、先方にちゃんと伝わってしなかったのだ。
修道院についてから、もめてしまい、帰りは歩きとバスで帰ることにして、10ラリ払ってタクシーは帰した。
このタクシーも、乗車してから、ガソリンスタンド(町の売店のようなところ)に立ち寄り、燃料を補給していた。


ゲラティ修道院は、 山の中腹にあり、数キロ離れた途中道からも、その位置は見て取れた。
しかし、道は大きく迂回し、登山道に入ってからも曲がりくねっていて、最初に見えた位置から、到着まで、予想以上に時間がかかった。
とはいえ、20分くらいで到着。修道院の規模や配置は、昨日見たサナヒンや、ハグパットとあまり変わるところはない。
主になる教会を中心に、付属施設がいくつか配置してある。
ただし、グルジア側の僧院、教会は、この後判明するのだが、どれもベージュ色をしていて、見ていて段々飽きがきてしまった。
アルメニア教会や修道院は、どこか飽きないものがあるのだが、グルジアのものは、どれも同じに見えてきてしまう。
なぜだろう。結局自分は遺跡が好きなのであって、石や材料の素材の色が、そのままむき出しになっていないと駄目ということなのだろうか。
などということを少し考えてつつ、ぐるりと一周して戻る。
ここには、中世グルジア王の肖像壁画があるとのことで、僧院の人に頼めば空けてくれたかも知れないが、
ここでも「世界遺産なんだから、インターネットでいくらでも見れるだろう」などと、
自身のモットーの一つである「百聞は一見に如かず」の標語とは裏腹に、建築物の概観だけ見て終わりにしてしまう。
よくない傾向。現地に行かねばわからない、というロケーション情報が重要とはいえ、少しはしょりすぎじゃないのか。
と思いつつも、戻りの時間も気になるので、早々に元きた道を歩いて下る。


坂道を下る途中、途中緑色の塗料の原材料のような、エメラルド色の 地層が、数メートル四方に渡ってむき出しになっている場所を通過する。
そこを流れている小川が、エメラルドグリーンに染まっていて美しい。
35分くらい歩いて、川の橋を渡ったところにある、バス停らしきとこに到着。
バス停かどうかは定かではないのだが、数名の人が突っ立っているので、バス停だと思われる。9時15分。



待つこと15分。満員ぎゅうぎゅう詰めのオンボロバスがやってく る。
窓ガラスはあちこちで穴が開き、エンジンもオーバーヒート寸前なのではないか、という風情だ。
バスの本数が少ないからだろう、すし詰め状態。0,2ラリ。
9時40分、ダヴィド王像のある広場に戻る。
ワーキングタイムに入ったのだろう、お店がオープンに、近くのバザールのあたりから、商店街に人々があふれていて活気がある。
途中本屋に入って、歴史地図帳などを探したりしながら、商店街を抜けて、新市街の駅まで町を散歩することにする。


クタイシには、「クタイシT」「クタイシU」の二つの駅があり、今 朝到着した駅は、旧市街にあるクタイシT、新市街には、クタイシUがある。
ガイドブックで見ると、距離は3キロ程。歩くにはちょうどよい距離である。
といいつつ、旧市街は、普通の旧ソ式アパートがあるだけで、あまり面白くない。
2キロ程歩いたところで、疲れてきたこともあり、残り駅まで直線しかない地点から、間違いなく駅にいくと思われるバスに乗ってしまう。
思ったとおり、駅のそばを通過しので、そこで降りてクタイシU駅まで歩く。
10時半頃駅着。またしてもブルガリアやアルメニアとの比較となるが、驚いたことに、
大型バス、小型マイクロバス、ワゴンバスなどが大量に出入りしている、ちゃんとしたバスターミナルが駅前にあった。
発車を待つものだけでも3、40台はいそうである。どうも、グルジアの交通事情は、アルメニアよりも格段によさそうである。
アルメニアは、アゼルバイジャンとの紛争で、軍事予算を割かなければならないし、グルジアは、カスピ海石油パイプラインビジネス関連で、潤っているのかも 知れない。
全体的にブルガリアに近い印象のあるアルメニアであるが、大都市を結ぶ幹線バスについては、グルジアの方が(10年前の)ブルガリアに近そうである。


トビリシの札を掲げた大型観光バスを見つけたので、思わずチケット を買ってしまった。
10ラリ。ここで、黒海岸のポディへいって往復するかどうか、迷ったのだが、この国のバスの平均移動速度もよくわからなかったことと、
昨夜の睡眠不足と早朝駅の待合室で凍えながら夜が明けるのを待った疲労から、このような弱気な判断に傾いてしまった側面もあるかと思うが、
この時点では、まだグルジア軍用道路に行く可能性を検討していたので、早めに戻ることにしたのだと思う。
お昼用にバナナとスプライトを購入して乗車。11時発。


12時48分に一度休憩した後、15時12分、トビリシのディドゥ ベ駅前バスターミナル着。
途中うとうとしつつ微かに覚えているところでは、休憩した峠の辺りにトンネルがあり、この辺りを境に、西部と東部の分かれ目となっている模様。
景色は特にダイナミックでもなく、山梨県の勝沼から、東京都に抜ける笹子トンネル前後と似たようなイメージで、周囲の山々も日本でお目にかかれるような感 じ。


途中停車した町のバスターミナル近くの、赤茶けた丘の上に中世と思 われる要塞があり(イメージとしては、スペインのサグント遺跡。
ただしスケールは1/3くらい)、後で調べたところ、スターリンの生家のあるゴリだと思われる。


15時くらいにトビリシ着。
ディドゥベバスターミナルでは、ムツヘタ行きバスを探すのに少し苦労する。
3、4人の人に、バスの場所と、チケット売り場を聞くことになる。
最初の窓口のおばちゃんには、すぐ通じたのに、「ムツヘタ」という発音が、人によっては、ぜんぜん通じない。
どうやら、「ムツヘータ」と、「ヘ」にアクセントがあるようだ。最初は「ム」にアクセントを置いていたので、通じなかったと思われる。
にしても「ヘター?」などと聞き返されて、少々むかっと来たりする。


で、そのムツ ヘータまで9Km程度で2ラリ。丘の上のジュワリ大聖堂が見えてくる。
ガイドブックの地図で見るより、予想以上の広がりである。
橋があまりかかっておらず、ムツヘタ側に渡るのに、2キロ程上流までさかのぼってから、橋を渡って戻る。
これを歩くとなると相当の苦労で、夕方までに終えられるかどうか。。。取りあぜず、町の中心広場で下車。
15時48分。まずは、町の北はづれにある中世要塞跡まで歩く。
16時12分に要塞跡到着。1.5キロ程はあるだろうか。
要塞に上ると、北側の新市街だと思われるカラフルなアパート群、対岸の山の上のジュワリ大聖堂がよく見える。
とりあえず大聖堂まで歩いてみよう、と思って広場まで戻ったところで、タクシーがよってくる。
ジュワリ大聖堂まで15ラリ。結局タクシーにする。
しかし、載って正解だった。ジュワリ大聖堂に行くには、合流している川の一方を遡って橋を渡り、
反対側を戻ってきてから、合流後の川を1キロ程下ってから橋を渡って、更に、蛇行することなく、
緩やかな裾野を、直線的に進んで、大きく迂回して山頂に至るルートを取っている。
恐らく登山道に入ってから5,6キロ程走り、合計でも10kmは走ったように思う。


ジュワリ大聖堂は、予想以上に見晴らしのよい場所にあった。もっと せせこましい街道沿いの断崖の上にでもあるのかと思っていた。
やはり、聖地となるところは、それなりのロケーションを持っているということか。
大聖堂は、はやり観光地のようで、丘の上の駐車場には、観光バスが何台か駐車していた。
タクシーの運ちゃんに、帰りの運賃を聞くと、合計で、20でいい、とのことなので、待っていてもらって、帰りも乗せてもらうことにする。
この大聖堂も、普通に教会として運営されていた。内部は、い石壁がむき出して、やはり古い建築物としての風格がある。
もっとも、プレハブ小屋のようなものが増築されていて、若干雰囲気を壊しているところもあるが、なぜかご愛嬌という感じもする。


帰りは、スヴェティ・ツホヴェリ大聖堂まで乗せてもらう。
他の観光名所をしきりに案内されたが、ひたすら断っていたら、ちょっと機嫌を損ねたようである。
儲からないから、ということもあるだろうが、観光客が決まりきった場所しか行かないことについても、腹立たしく思っているようでもあった。
現地で重要視されている見所がもっとある、といいたいようでもあった。
タクシー利用はさすがに早く、17:09には、聖ツホヴェリ大聖堂に到着。
ここはジュワリ以上に観光地っぽく、入り口に参道には、お土産屋が並んでいた。
ブルガリアのバチコボ修道院を思い出す。


この大聖堂は、形と色こそ、ベージュに円柱形のドームと、これまで 見たグルジア教会とあまり違いはなく、似たような形なので、気づきにくいが、大きさが倍くらい大きい。
内部の雰囲気は、カトリック教会のようで、正教会にある、ほっとするような雰囲気はなく、どちらかというと、とがった冷たい雰囲気がある。
床には墓標が埋められており、19世紀以降の王族や貴族の墓となっている。観光客がその墓標を真剣に読んでいたりする。


最後はサムダヴロ教会。
最初にバスを降りた広場に面した公園の奥に見えていた。
旧市街を戻りながら、ジュワリ大聖堂とはではなく、南側の対岸の山の上に十字架があるのが見える。
これもまた、ブルガリアのヴラッツァの町の山の上の十字架を思い出す。
確かトルコからの独立戦争の時のものだった筈。グルジアのこの十字架も、なにか大きな由来があるのかも知れない。


サムダウロ教会の前にバス停があり、程なくバスはやってきて、18 時15分頃にはトビリシのディドゥベバスターミナルに戻ることができた。
この後、ホテルを探す時間はだいぶあるので、いい宿が探させるかと思ったが、なかなか見つからない。
ガイドブックにあるホテルを探したが、8年前の情報では、既になくなっていた。
このところ連日の強行軍が続いているので、今日は(多少)高いホテルでも、ちゃんとシャワーのあるところがいいや、と思って探したが、なかなか見つからな い。
しかたがないから高級ホテルでもいいや、と思い出したところ、ルスタヴェリ駅近くの大通り沿いの建物に、「Hotel」と白い紙のビラが張ってあるのを発 見。
行ってみると、年金生活者のご老人の経営するプライベートルームだった。
32ドル。60ラリ。高いといえば高いが、部屋の中にシャワーがついていて、先進的なユニット設備で使いやすい。
お湯が出る時間が11時までとのことだったので、さっさと食事に出る。
宿を探しているうちに見つけた中華屋へ行く。
このあたりは、店が多いのだが、アイリッシュやドイツパブが多く、なるべく飲まずに食事が取れそうなところは、中華屋くらいしか見つからなかった。
この中華屋は、昨日の店とは違い、地元の若者が多く集まっていて、ウィトレスの女性はあまり愛想がよくない。
お茶は昨日に店より安く1か2ラリだったと思う。ビール入れて20ラリ。本日の出費は合計132ラリ。


5月2日

6時42分目を覚ますが結局8時20分起床。
今日は余裕を持って過ごす日にする。
グルジア軍用道路はやめて、午前中はリコンファームしたりして、午後テラヴィに行こうと考えを変えた。
明日は夜行でイェレバンに戻ろう。やはり、5/4日の早朝のバスでイェレバンに戻る、というプランは、
もしバスを乗り逃した場合危険であるし、夜行列車に乗ってみるのも悪くは無い。
最終日は、イレェレバン近郊を観光してもいいのではないか、などと考える。


8時40分から1時間程、家主のばあさんと朝食をとる。
ばあさんが色々話たところによると、本人はグルジアでは結構有名が画家で、2人の娘もそれぞれ芸術家になっているとのこと。
家の中には、ばあさんの書いた油絵が壁中に掲げられ、娘さんの展覧会の冊子なども見せてもらう。
既存芸術のタッチの範囲内ではあるが、(現代アートのような破壊力は感じない、という意味)、
それなりの斬新さを感じて興味をそそられてみていたら、知り合いの画家の画集を持ってきてくれる。
これはインパクトがあった。どこかに名前を控えてきた筈だが、メモにある、AnntokiやDidi Chailuriという言葉が、
その名前なのか、今となっては、説明不足なメモでなんともいえない。
部屋に飾られたばあさんの画には、ボロディノの戦いでナポレオンを破ったなんとかいう将軍は実はグルジア人なのだそうで、その人の肖像画などもあった。
朝食は色々なものが出た。チーズ、サワークリーム、ジャム、紅茶、パン、卵。ティーセットも結構高そうだ。家政婦さんのような人がきて手伝っている。


9:50分頃、タクシーに乗って、アエロフトートのオフィスに着 く。
10時の開店を待っていると、ほぼ定刻にオープンした。
チケットのリコンファームをしてもらう。
今回前日夜から空港入りするので、まったく問題はないと思うのだが、気の緩みや準備不足に懲りたので、念には念を入れるようにする。
以前27番のバスを教えてもらったので、これに載ればルスタヴェリに直行できるかと思い乗車したら、
なんと、トビリシの南東へ向かい、隣の町まで行ってしまって、その終点で降ろされてしまった。
別のバスを拾って戻ると、最初にトビリシに来る時みかけたサムゴリ駅前を通過したので、次のバス停で降り、反対方向のバスに乗って、サムゴリ駅に行く。
11時15分にはテラヴィ行きワゴンバスに乗ることができた。
11時45分出発。こちらでは、こうした白いワゴンバスをマトーシュカというらしい。テラヴィまで6ラリ。


テラヴィは、直線距離は50キロくらいしかないように見えるが、実 際には、山脈を迂回するため、150kmくらいあった。
結構かかるかと思っていたが、2時間、13時49分についた。
高速道路でもないのに、かなり飛ばしたようだが。
町は東北方向に向かって下っていりる山の斜面にあり、バスターミナルは町の下の端の方にあった。
雑草や配管などが置いてある空き地が、テラスのように張り出していて、ここから生まれて初めて大コーカサス 山脈を見る。
今回の旅行で一番感動したのはこの時なのではないかと思う。


20分程見た後、宿を探しがてら市内の散策に出る。
町というより村に近い規模のテラヴィは、中心部のメインストリートと、バスターミナルの辺りに商店街と、
公民館や博物館のような建物があるだけで、15分もあれば、繁華街を見れてしまう程度の規模である。
ところが、なんと、中心部の広場に、「i」の看板があり、アメリカ南北戦争時代の南部の地主の家みたいな白い建物の2階に、
ツーリストインフォメーションがあり、びっくりした。
しかも、英、仏、独、西、ロシア語の、無料のグルジア観光名所紹介パンフレットやグルジア地図があり、
インターネットに繋がった観光案内設備があって、宿の手配もやってくれた。
しかも条件も細かく指定でき、プリントアウトしてくれた一覧表には、30件程のゲストハウスが印刷されていた。
普通の民家を改造して、ゲストハウスにしているという家はかなりある。
やはり、ワインの名産地とあって、観光客や、業界関係者が来ることが多いのだろうか。


予算も結構選べそうなので、戸惑ってしまったが、安すぎず高すぎず ということで、20ラリの宿にする。
一番安い価格帯で15、高い方で30くらいが標準的な価格帯だったと思う。
町の詳細地図は、配っているものはないらしく、タクシーにした。高くはなく1ラリで行ってくれた。
まぁ距離もそんなに無かったけど。
インフォメーションを出た後、隣の軽食屋(そもそもレストランと呼べそうなところはここしかなかった)で紅茶を飲んでから宿にゆく。
宿は3階建てで、イラン風の3階はイラン風のテラスとなっていた。
町や斜面沿いなので、邪魔になる建物もなく、ここからも、コーカサス山脈がよく見えた。
15時半頃、城の観光に出る。

小雨が降ってきていて、雨宿りをしながら見て回る。
城は中心広場の東北側にあり、最初に城の城門だと思ったところを入ると、なんと小学校が入っていて、
150m四方正方形の敷地の東半分が学校で、西半分に、当時の王宮などが残っているようである。
反対側の門に行くと、ちゃんと王宮にたどり着けた。
完全にイラン風。
テヘランにある、ガージャル朝のゴレスターン宮殿をすごく小さくして、宮殿の装飾をとったミニチュアを作るとこうなるのでは、といったような感じ。
ここにも、城壁の東側がテラスとなっていて、コーカサス山脈がよく見えた。
見学しているうちに寒くなってきたので、軽食屋に入って、紅茶を飲む。
店員の愛想がよくなく、ブルガリア風。
食事のできるレストランもなさそうだし、イフォメで聞いたところ、本屋もなさそうなので、
雨にぬれながらバザールと商店街を見学したあと、缶ビールとシュニッツェル(ハンバーグ)とパンを買って、宿に戻って本を読みながら食べる。
18時20分には宿に戻る。


宿の部屋の隣部屋は、元はここの住人の書斎だったようで、今は独立 してトビリシで働いている息子が、
学生時代まで使っていました、という風情(あくまで推測)の書籍が並んでいる。
理数系書籍が多そうなので、医者とかエンジニア・教師や研究者でもやっているのかもしれない。
昨日本屋でみかけた英語のグルジア紹介の書籍があったので、ベッドであったまりながら、
パンとハンバーグを食べつつざっと目を通す。寒さと疲れからか、20時には眠くなる。
夜中、セントラルヒーティングが入っていたようである。まったく寒くなかった。


5月3日

7時起床。40分頃出発。
55分にバスターミナルに着き、8時半のバスに乗る。
トビリシ行きバスは、バスターミンルから更に道路を渡って100m程くだったところにある、より小さなバスターミナルだった。
なんで別れているのかよくわからない。
10時56分トビリシ着。5ラリ。
トビリシ駅に、夜行列車の切符を買いに行ったところ、アルメニア到着時に空港で会った日本人の人と、駅の入り口ですれ違う。
小一時間程、色々情報交換する。
わたしがグルジアとアルメニアの部分だけ切り抜いて持ってきた1999年版旅行人の最新版を持っていた。
グルジア料理屋の場所と価格を教えてもらい、お昼はそこで食べることにする。
場所は、メテヒ教会近くにあり、直ぐわかった。確かに明らかな観光客目当てにしては、料理は高くはなく、17ラリでたらふく食べれた。
夕食分のパンをかばんに詰める。
ウェイトレスも親切だったので、少しチップを弾む。
旧市街を散歩しつつ戻り、本屋を探すと、グルジア歴史地図帳を見つけることができた。
無愛想な本屋のおねえちゃんが、愛想とは裏腹に、ちゃんと探して見つけてくれた。5.6ラリ。
カラーで、アルメニアのもの程ではないが、かなり詳しい歴史地図帳である。うれしさのあまり、途中で本を出して眺めたりする。
また雨が降ってきたので、雨宿りしつつ旧市街を国立歴史博物館に向かって歩く。
途中であまったラリを、5ラリ程残して米ドルに両替した。30ドルになったので、グルジアでは170ドル使ったことになる。
アルメニアでは147ドル程度を使っているので、この時点で滞在費合計317ドル程度となっている。
実質6日間なので、一日50ドル程度。
なんだかんだいってやはり一日最低5000円はかかっている。
私の感覚では、先進国は一日1万円、途上国は一日2500円、その中間の準先進国は1日5000円という感覚があるので、グルジア・アルメニアは、準先進 国ということになるのだろう。
ちなみに打ち合わけは、だいたい平均すれば、1/3が宿代、1/3が交通費、1/3が食費、観光料など雑費となっている。
通常の人よりも移動が多く、長距離を頻繁に乗るので、交通費の割合が高くなっていると思われるが、
タクシーなどはあまり使わないので、他の人もこんなものなのかも知れない。


雨脚はひどくなる一方で、国立博物館前についたときは、かなり激し さを増していた。が、博物館は休館していた。
日曜日でもないのに。ひどい。
博物館前の駅から地下鉄で14:42分、駅につく。15:47分の発車予定だが、実際に発車したのは15時44分だった。
時計をアルメニア時間に合わせるために、1時間進める。
駅で夜食用にスプライトとバナナを買ったら、1ラリしか残らなかったが、発車後、おばさんが寝具を持ってきたときに、「4ラリだ」と金を要求する。
1ラリしかない、といったら、毛布だけ渡して、シーツとマクラはくれなかった。
後で思ったには、もっと抵抗して、グルジア語のわかる、他のお客からも、金をふんだくるのか、見せてもらせばよかった。
恐らくおばさんのポケットマネーになるのだろう。
とはいえ、生活が苦しいのかも知れないし、シーツとマクラが無くても、まったく問題ないので、まあいいか、と思う。


18時42分グルジア国境到着。
20時24分、グルジアのパスポートコントロール通過。
1時間かかって、ゆっくりと2キロ程は知っただろか、アルメニア国境に着く。
21時20分、アルメニアのパスポートコントロールへ。
既に辺りは真っ暗で、国境警備隊につれられて、偉そうにふんぞり返る係官のもとへいく。
40代中間くらいのこの人は、不愉快なのか面白い人なのかよくわからなかった。
本来や愉快な人なのだろうが、威厳を保つために、無理に偉そうにしているようにも思えた。
というのは、めんどくさそうに、ねちねち書類のチェックをしながら、
「これは問題だ。大問題だ。なんだこの誕生日の2というのは。02と書かないと、コンピュータに入力できないじゃないか。これは俺の問題ではなく、お前の 問題だ」
てなことをいったりする。
このとき、他の日本人の客が入ってきた。
この人は、よせばいいのに、場が読めないのか、日本語で、「ヴィザ代いくらですか?20ドルで入れた人もいるって聞いているのに、30ドルって高いですよ ね」などと話だしたので、係官のおじさんに、「話をするな!」と怒鳴られる。
もうしわけないけど、こんなところを旅行しているくせに、場所柄をわきまえない発言をする人は、
悪いけど一緒にされたくないので、私の手続きが終わったら、さっさと引き上げた。


列車に戻っても、なかなかパスポートが戻ってこなかったが、22時 10分、食堂車まで取りに生かされ、受け取る
。パスポート戻ってきたか?と若い係官が呼びにきて、戻ってきてない、というと、じゃあ、という感じでとりに行く。こんなやりかたで、取りこぼしが出ない のだろうか。
おかげで意外に、見た目なかなか立派そうな食堂車を目にすることができた。
が、夕飯をここで食べようとは微塵も思わなかった。なぜかわからないが。
せっかくの機会だから試してもよかったのに。
と今は思うが、きっと、しょうもないクオリティのものしか出ないんだろう、と思い込んだのかも知れない。


パスポートを受け取って戻ると、若い係官が窓から
「ヒコー、パスポルトなんだかんだ」といっている。
日本人の名前が難しいので、聞き取りやすい、名前の中の一部の文字を使って呼んでいるのだった。



5月4日


ひどい一日だった。今回の旅行は、雨にはじまり、雨に終わった。と いう印象。

6時頃目覚め、30分起床。
7時から9時まで、窓の外の景色を見なてすごす。
既にイェレバンの近くまで来ているはずだが、時速20キロもないくらいの速度で、しょっちゅうとまりながら進んでいる。
トビリシ-イェレバン間227kmを、14時間以上かかっているのだから、
時速16キロという計算になる。ちょっと遅すぎないか。9時半にイェレバン駅到着。


ホームに下りると、昨日の日本人がいたので、一応会釈だけする。
バスで10時頃インフォメーションに到着し、どっかデイリー観光にちょうどいい場所ないかと相談すると、ホルヴィラップ修道院を進められた。
バスは1日2本で11時にイェレバン駅の西側から出発とのことなので、地下鉄でイェレバン駅に戻り、4ドル分だけ両替して、バス停にゆく。
ここの案内所で、日本に興味を持っている兄ちゃんに話しかけられ、漢字を色々を教える羽目になった。
太陽とか神風とか、家とか、そんな言葉に興味を持っていた。
ホルヴィレップまで400ADM。1400ADMくらいしか手持ちがないので、結構ぎりぎり。
途中イェレバン−アルタシャト間の高速沿いで、ガソリンスタンドに寄って燃料補給。
12時14分教会着。バス通りから1.5キロ程入ったところで、バスで来た観光客jは私だけみたいだった。
小雨が降る中、修道院まで歩く。教会の入り口の駐車場には、観光会社のワゴンや、観光客の4WDなどが停車していた。


ホルヴィラップ 修道院は、アルメニアキリスト教化を実現した聖グレゴリウスが、
12年間幽閉されていた牢屋があるとのことで、ローマ・パルティア時代の遺跡ということでもあるので、突然興味が出てきた。
記録も遺跡も残っているので、本当にここに幽閉されていたと思われる。
牢は地下にあり、17世紀に建設された教会の横の建物の床に、地下牢への入り口がある。
地下牢は天井まで10mほど、窓はなく、黒石が、すすけているように見え、巨大な焼却炉のような印象である。
直径は5m程度。こんなところに12年も幽閉されていて狂わないとは、尋常の神経ではないことは確かだと思うが、
精神に異常をきたさなかったというとのこと自体が、異常なことだと思われ、かえって、正常ではなかったのではないか、という疑念を抱かせるものがあるっ た。
他の観光客は写真を撮影していなかったので、特に撮影禁止と書かれてはいなかったが、他の観光客がいなくなるのを待って、撮影する。


地下牢を出ると、観桜客の一段が、ガイドに「国境どこ?あれがそう ですよ」などとやりとりしているのを耳にする。
修道院は丘の上にあり、テラスのようになっている一角があったので、そこから眺めると、
確かに監視等のようなものが、1キロ程先を、いくつか横切っていた。


雨はやみそうもなく、修道院を出て駐車場に戻ったところに小屋があ り、そこに数人の人が雨宿りをしていたので、私もそこで雨宿りをする。
そこにいた一段は、地元の青年のようで、近くの村から来ているとのこと。
観光客に鳩を売っているのか、ここに遊びにきているのか、鳩を使った芸を観光客に見せるアルバイトでもしているのか、
よくわからなかったが、パンとハム、マスタードを進められ、お昼にする。
この手の青年連中がいうことは大体決まっていて、下半身ネタと、日本までの航空券代金や自国のどこがいいか?などという話。
信用できるわけでもないので、睡眠薬が入っていないかどうか、同じものを他のメンバーが食べているかどうかを確認しながら食べる。
1.5リットルのジュースまるまる一本くれた。
結局気のいい兄ちゃんたちのようだった。雨が少し小降りになってきたし、これ以上懇親を深めて、
家に来いなどといわれても困るので、適当なところで、さよならをいい、バス通りに向かって歩き出す。
修道院の外、丘の麓に墓地があり、写真入りの墓標が連なっていた。




バス通りにでて10分程歩いていると、なんと、来るとき乗ったバス が、引き返して戻ってきたところに遭遇した。
もっと驚いたのは、来るときのっていた、高校生くらいの4人連れの女の子のグループも乗っていた。
私がバスを降りてから、ここで乗るまでに2時間15分くらい経っているから、なにか用事をする時間はあったかも知れない。
意外に長くホルヴィレップにいたことになる。
15時頃、イェレバン駅到着。地下鉄が便利だとわかったので、地下鉄でインフォメに行って、レストランと映画館の場所を教えてもらう。
ついでにインターネットが使えるようだったので、使わせてもらって、メールをチェック。
続いて本屋に行き、前回時に見た、日本アルメニア友好書籍なるものを探す。
半分アルメニア語、半分日本語でかかれた書籍だ。なんでもいいから、モスクワの空港で待つ間読む本がほしかった。
隣にもう一つ本屋があったのでいってみると、そこは、より大きな本屋で、英語やロシアの雑誌や書籍がわりと置かれていたが、読みたいような本はなかった。


トイレに行きたくなり、わざわざまた地下鉄に乗り、イェレバン駅ま で行って駅のトイレにゆく。
駅で両替しようとしたら、そこでは100ドル札は扱えないとのことなので、地下鉄でバザールに行き銀行にて10ドルだけ両替してもらう。
再度メトロに乗り、北の方の終点のマルシャル・バクラミアン駅で下車。
ここから散歩しつつ、市内に戻り、映画でも見ようと思ったのだが、またも雨が降ってくる。
しかも道まで間違えてしまい、終点駅からオペラ座前に戻るのに、雨の中、アパートの入り口などで雨宿りしながら、16時半から18時半も、2時間近くか かってしまう。
クタイシの朝、昨日の歴史博物館、今日の雨と、雨にひどい思いをしたおかげで、今回の旅行は雨ににたたられた印象が強くなった。
といっても、最後まで傘を買わなかったので、実は自業自得に過ぎないのだけれども。


18時20分、教えてもらった店と間違え、サテンに入ってしまう が、一息漬けた。
19時15分、サテンを出て、数件先のアルメニア民族料理の店に行く。ここは、いかにも観光客目当ての店で、
内部は民芸品や楽器、写真、民族料理の材料などが天井からぶる下がっていたりして、ウォイトレスは民族衣装。
しかし、これまで雨で苦しんだせいか、ここの料理はあたりだった。
特に、薄いナンを千切ってガーリックスープに入れて食べる料理は旨かった。
20時から、アルメニア音楽の生演奏が始まった。21時終了までいて3300ADM。妥当な額のように思える。
というか意外に安いかも。
はじめて旅行者らしい機会となった感じ。あまったナンはかばんに詰める。今夜は空港で夜明かしになるので、夜食代わりである。


101番バスに乗り、21時46分、空港へ行く道路との分岐点でお ろしてもらう。22時空港着。

これから、拷問のような20時間が始まるのだった。
とりあえず、きれいで近代的な到着便で、翌朝4:30分まですご す。
時間つぶしに、アルメニアとグルジアの歴史地図を開いてみると、なんとグッショリ雨水がしみこんでいて、各ページがぴったりとくっついてしまっていた。
トイレのエアータオルで1時間かけて、各ページをはがして、乾燥させる。
立派な地図帳が、しわしわになってしまったが、とりあえず全頁、画像がはがれることなく、各ページをはがすことができた。




5月5日


引き続きひどい1日が続く。

4時半に、出発便ロビーに移動し、空港税29ドル (10000ADM)を支払う。
こんな金を払うのであれば、コーカサス旅行は、断じてアルメニアから入国して、グルジアかアゼルバイジャンから出た方がいいと思う。
7時20分出発。9時20分、モスクワ着。
座席を間違えて、本当は右側なのに、左側の席に座ってしまうが、何もいわれなかった(降りるまで気がつかなかった)。
おかげで、エルブルス山を窓から見ることができ、ちょっと感激。
本来なら肉眼で見たかったのだが、今後旅行するとしても、治安の問題と、現地までいく交通の不便さを考えると、
見ることはなかなか難しいと思われることもあって、飛行機の窓からとはいえ、見れただけでもよかった。
そういえば、中国新疆の天山山脈もウルムチから西安に戻る飛行機に中で見たのだった。


10時、トランジットの手続きを終え、寝場所を探して眠ることにす る。
今回程、書籍を持ってこなかったことが悔やまれることはなかった。
荷物は相当軽かったので、あと本の1,2冊持ってきた程度で、どうということはない。
ブルガリア時代、かならずサイバーパンクのSFをもって歩いたが、なぜか旅行にはSF小説がはまるのである。
次回からは、必ず1冊は小説を携行することにしようと強く反省。

仕方が無いので、無料で配布されているロシア語の新聞や、カー雑 誌、レジャー雑誌などを見てすごす。
写真だけでも結構楽しめるものだ。


19時26分ゲートイン。

今回の旅程 
利用交通機関
有料入場回数
費用 170+147+14=331ドル。(ビザ60ドル、空港税 29ドル、モスクワ13ドル=112ドル)合計445ドル。

下記は、その他の旅行情報。

     治安、普通
     交通機関 アルメニア△、グルジア〇
     宿泊 アルメニア〇、グルジア〇 (比較的快適な安宿がアリ、探しやすいという意味)
     英語 どっちも△
     コスト トルコや中国よりもかかる感じ。個人的には、先進国旅行の1/3くらい、という感覚。
         ただし、宿代、タクシー代に比べて、バス、列車、地下鉄の交通費は、非常に激安な感じ。

    1.エレバンのインフォによれば、A・G国間の国境は、3個所ともヴィザ取得可能とのことですが、
   西のニノツミンダでは、近隣都市からの公共交通機関がない為、お奨めできないとのことでした。
     こういう事情なので、アルメニアの西から出て、黒海をみて、トビリシ経由で、東から戻り、
  セバン湖を見て、エレバンに戻る、という、私の当初の希望ルートは、短期旅行としては、まったく無謀でした。
  アルメニア再入国ビザ(30ドル)や、空港税29ドルは、無駄なので、エレバンIn/Outは薦めません。

    2.トビリシのアエロフロートの住所が、最新号の旅行人ノートに書いてある場所から移動していました。
    地下鉄サメディティノ・インスティテューティで下車後、バス道路沿いに北へ向かって200mの最初の交差点を右折し、
    150mほどの、右側、5階建て団地の1階に移転しています。営業時間は、10-14、15-19時です。

    3.持っていった旅行人ノートが8年前と古いので、既に情報が更新されているかも知れませんが、
   トビリシ-クタイシの夜行は、21時50発、3時25着です。
    なので、黒海沿岸のポディ(7時頃着らしい)まで行ってしまった方がいいと思います。バス クタイシ-トビリシ間4時間でした。

    4.ムツヘタのジュワリ聖堂は、旅行人の地図には、2〜3キロ程度に見えますが、実際には、10キロくらいあり、タクシー利用がお奨めです。

    5.テレヴィには、英語の通じるインフォメーションがあり、30件程の民宿リストを持っていました。
    15〜40ラリです。私が泊まったのは、朝食なしで20ラリでした。シャワートイレ共同ですが快適でした。


    6.エレバンに早朝着いたら、最初にエチミアジンに移動してしまうことをお奨めします。
   空港とエチミアジンは5キロ程度で近くです。
   その後、111番バスで市内に移動すると、効率的だと思います。私は帰国時も111番バスで、空港近くで下車し、2K程歩いて空港に行きました。

    7.グルジアは普通に見受けられましたが、アルメニアは、原油高の影響で、
   公共交通機関の本数が激減していて特に、都市内以外の交通機関は、9時〜16時頃までしかなく、移動に非常に不便でした。
     また観光用インフラもあまり整っていない感じで、個人旅行にはまだ不便だと感じました。

    8.グルジアの国境(電車ではなく、車側)は、両替所がありません。
    私は、国境で待っていた小型バスの運転手を通じて、もの売りのおばちゃんに両替してもらいました。
    レートもなにもわからず、ぼられてもわからない状況でした(後で計算すると、バス代を距離からすると20%くらい高く取られたかな、という感じ)
      ただし、国境の2〜3キロ先に、グルジアの町(サダフロ)が あり、ここで両替できるようです(バスの乗客が両替していた)。
    もし国境でバスが見つからなくても、2,3キロ歩けば小さな町に出ますので、心配ありません。
    アルメニア側は、ちゃんと両替所があり、1キロくらいの地点に町があるので、安心です。
    それにしても、アルメニアで一番近代的な場所は、空港の到着ロビーだという感想には、同意する方も多いのではないでしょうか。

    9.宿情報
     アルメニアは、Anahitさん宅。5000AMD(インフォでは4500で紹介されたが)、ヴァナゾル5000(お湯、シャワーなし)
   トビリシ、 Hotel Gusta(ルスタヴェリ駅から北へ向かって500mくらいの道路沿いに、チラシが貼ってあるのでわかる)、
   画家の家の民宿だが、ユニットバスのような改造がしてあり、32ドル(60ラリ)と高いが、お湯とシャワーの、近代生活を味会うにはいいかも。テレ ヴィ20ラリ。

    10、ロシア語
     私はブルガリア語が流行会話程度はわかるので、なんとなくロシア語もわかるところがあり、その点スムーズなところもありましたが、
   じゃあロシア語を知らなくて旅行できないかというと、そんな事はないのではないかと思います。
   時間はかかりますが、筆談と身振りでいけるものと思いますので、英語だけでもOKだと思います。

     綜合すると、今回毎日雨にたたられ、あまり良かった思い出はないのですが、
    アルメニアは首都の繁華街以外の旅行インフラは未整備で、旅行者には不便だと思いました。
    グルジアは、首都も地方もまぁまぁという感じです。


    移動時間
      エレバン-ヴァナゾル、オンボロバスで3時間。
      トビリシ-テレヴィ ライトバンバスで2時間10分。150キロもある割にはかなり早いです。
       また、早朝バスがなかったのでタクシー使いましたが、ヴァナゾル-アラヴェルディ間40分、
       アラヴェルディ-国境 35分程度、くねり曲がる山道を雨の中、80-90キロで飛ばされ、ひきつりました。
    レート(2007年5月)
      1USD=1.68ラリ=355AMD



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